祖母がうざい。うざいエピソード3つ

祖母

35歳男性。

栃木県内の中学校教諭を経て、現在は東京都内のIT企業に勤務。

 

自分が子どものころ、母方の祖母から、いとこの悪口を吹き込まれたり、大手スーパーに買い物に出かけたときは、恥ずかしい思いをさせられるなど。

祖母を「うざい」と感じたこともあった。

 

趣味はロードサイクリングと読書と株式投資。

 

 

祖母をうざいと感じたエピソード1.祖母から可愛がられすぎた

孫と祖父祖母

 

私は生まれも育ちも、栃木県の人口5万人程度の田舎町。

そして、母方の祖父母の家は、私が生まれ育った家から、自転車で10分程度の距離にありました。

 

母方の祖母は、大正時代に生まれた人でしたが、私が小学生のころは体もまだ元気。

この祖母は、私のことを可愛がってくれました。

 

母方の祖母にとっては、孫たちのなかでは、私がもっとも学校での成績が良かったです。

それに、いとこたちのなかで、私がおとなしい性格だったこともあったと思います。

 

ところが、この祖母は別の孫(私の母方のいとこ)のことを、露骨に嫌っていました。

このいとこは、日ごろの振る舞いが粗暴な点がありましたし、学校の成績はかなり悪く、クラスの順位も下から数えたほうが早かったのです。

ですから頻繁に、私に悪口を吹き込んでいました。

 

私にこんなことを言ったこともあります。

「おまえはできがいいんだから、いとこだからって、あんな奴と一緒に遊んでたら、成績が落ちるよ」

「おまえさんが、家の跡継ぎだったら、良かったのにな」

 

幼少のころから、祖母から頭をなでてもらったり、些細なことで褒められて嬉しかったです。

しかし、その一方では、頻繁にいとこの悪口を吹き込まれたので、祖母という人間が冷酷な人間のように思えましたし、うっとうしく思えました。

 

祖母をうざいと感じたエピソード2.大手スーパーへの買い物に連れていかれた

ショッピングカート

 

母方の祖母は大正時代生まれの人。

なので、隣の市への大手スーパーへ買い物に行くだけでも、まるで大都会に出かけるような気持ちになるようでした。

 

私は小学生のころ、たまに、この祖母に連れられて、近隣にある大手スーパーに買い物に出かけたことがあります。

私の母親からは「おばあちゃんは老人だから、道に迷わないようによく見てあげてね」と、その都度言われて出かけていました。

 

祖母は、めったに鉄道に乗りません。

ですので、地元のJRの無人駅から電車に乗るだけで、「おおー」とか「へぇー」などと、鉄道沿線の景色に感心するかのように大声をあげていました。

そのたびに周囲の乗客が私たちを見るので、とても恥ずかしかったのを覚えています。

 

また、大手スーパーに出かけていくと、私に気を使って「ほれ、なんでも好きなもの買いな」と言ってくれる祖母。

祖母にお金がないことは、子どもながらに私は知っていました。

ですから、たまにお菓子を買ってもらうだけで済ませていたのです。

 

しかし、それでもしつこく「ほかには、なにも買いたくないのか」とか「あんまり欲がない子だな」などと、嬉しそうに言います。

それを聞くたびに、私は少々げんなりした気持ちを持ちました。

そして、「困ったな」と思う行動を祖母がとったこともあります。

 

食品コーナーで肉や魚など食材も買ったときのこと。

お腹がすいたらしく、スーパー内のベンチに座り、買い物袋から肉を取り出して、なんと肉に醤油をかけて、爪楊枝で食べはじめたのです。

そして私に向かって「どうだ、おいしいぞ。おまえも食べろ」と勧めてくるのにはあきれました。

 

私の祖母は、田舎のばあさんだったわけですが、一緒に外出すると、恥ずかしい思いをさせられて、「うざい」と感じたこともしょっちゅうあります。

「世代が異なると、はじらいの観念がまったく異なるのだな」と思い、この点は悩んでしまいました。

 

 

祖母をうざいと感じたエピソード3.戦時中や戦争直後の話をよく聞かされた

戦闘機

 

大正時代生まれの祖母からは、よく戦時中の話を聞かされました。

1944年から1945年にかけては、頻繁に上空をアメリカ軍のB29が飛んでいたという話をするのです。

 

私たちが住んでいる土地は田舎ですから、アメリカ軍の空襲は一度もなかったようです。

ですが、「念のためB29が飛来してくると、防空壕に避難した」と話すのが祖母の得意な話。

実際に、祖母の自宅の裏庭には、防空壕が残っていました。

 

また、戦時中には都会から、多くの子どもたちが疎開してきた話。

戦争が終わったあとは都会の住人が食糧難におちいってしまい、祖母の家にまで「食料を売ってほしい」と、買い出しにきた人がいた話など。

いろいろな話をしてくれました。

 

さらには、戦争が終わって、赤紙をもらって召集令状をもらって戦場に出ていた住人たちが復員。

そして、数名の地元民は片腕を失って帰ってきたり、両足を失って帰ってきて生活は困窮していたという話もしていました。

 

祖母としては、1980年代生まれの私に対して、できるだけ戦争中の体験や、戦争直後の話を語り残しておこうと考えていたのだと思います。

しかし、これらの戦争中や戦争直後の話を一時は顔を合わせるたびに、聞かされてしまったので、すっかり私は暗記してしまいました。

そして、「少々うざいなあ」と感じてしまったことも事実です。

 

ときには戦争体験について、あまりに過酷な話を小学生の自分に話すので、吐いてしまったことがあり、とてもうんざりさせられました。

 

まとめ

私のことを可愛がってくれた母方の祖母。

ですが、あまりに可愛がられたり、いとこの悪口を吹き込まれたり、何度も何度も、戦争中や戦争直後の話を聞かされて、「うざい」と感じたことがたびたびありました。

 

大正時代の生まれで、シビアな人生を歩んだことが原因かもしれません。