子供は放置で男とデート!私のクズ親のクズエピソード4つ

仲がいい男女

35歳で、自営業をしている、既婚女性。

10代は、クズな母親のせいで、散々な生活を送っていました。

20代になっても、クズ母親に依存されていたが、思い切って縁を切ってからは、平穏な暮らしを送っている。

 

現在は、夫の家業を手伝いながら、趣味の映画鑑賞を日々楽しんでいます。

 

 

私のクズな親のエピソード1.誰にでも、色目を使う色情魔

先生

 

母親を「クズだ」と思ったのは、小学生のころです。

その当時はまだ、「母親は、母親なんだ」と思っていました。

ですが、父親が単身赴任になったころから、どんどん我が家の雲行きが、怪しくなってきたのです。

 

あるとき、小学校に、若い男性の先生が赴任してきました。

お母さんたちにも人気があって、女友だちのなかにも、「かっこいいよね」なんて言っている子がたくさんいたほど。

その先生、仮にA先生とします。

 

A先生は、私の地区の子ども会の担当になりました。

「私の母親も珍しく積極的に、子ども会に参加しているな」と、思っていたのです。

すると、ある日突然、「A先生に告白されちゃった~」と言い出し、喜んでいる母親がいました。

 

正直、私の母親は美人というタイプではありません。

なので、「なんで、うちの母親なんだろう?」と、疑問に思った私。

まだ、小学校の3,4年生だった私は、それがどういう意味か、分かりませんでした。

 

それからずっとあとになって、知ったことですが、私の母親はなぜか、男にスキをつくりすぎるようです。

つまり、そのA先生にも、自分から色目を使って、誘っていたのかもしれないということ。

 

大人になってから、小学校の同級生と話した時に、こう言われたことがあります。

「〇ちゃん(私)のお母さんって、ほかのお母さんのなかで、有名だったよ!」と。

 

色情魔として、警戒されていたくらいです。

私が知らないところで、よその父親にも、色目を使っていたのだと思います。

 

こんな人の娘ということ自体、何年も経った今でも、全否定したい気持ちですね。

 

私のクズな親のエピソード2.子どもを放置して、男と浮気を楽しむ

白米

 

浮気未遂くらいで、終っていたら、良かったのですが、父親の単身赴任が長くなり、とうとう母親は、浮気をしてしまいました。

相手の男も、大概クズ男でしたね。

母親は、子どもに浮気を隠すことなく、堂々と父親の留守中に、デートに行くんです。

 

当時、まだ小学生だった私の夕食は、スーパーで買ってきた、でき合いのものばかり。

そんなものを一人で食べて、夜を過ごしていました。

 

お惣菜があれば、良かったほうですね。

ひどいときには、ご飯とふりかけが置いてあることもありました。

それでも、「もしこの浮気が父親にバレたら、大変なことになる」と思っていた私は、誰にも言うことができず、黙っていたのです。

 

「行かないで!」

そう言って、母親に、泣いてすがったこともあります。

ですが、母親は私を振り切って、楽しそうに出かけていきました。

 

「早く、別れさせなければ」と、思っていたものの……。

小学生の私には、どうすることもできません。

 

あのころの食卓を思い出すと、今でも、かなり辛い気持ちになります。

今でいえば、ネグレクトもいいところですね。

「自分は、母親にとって、邪魔な存在でしかないのかな」と、思っていました。

 

私が母親に文句を言うと、「あんたも、母親になったら分かるよ」と、母親によく言い返されたものです。

自分が母親になった今だからこそ、欲望のままに生きていた母親の気持ちが、一切分かりません。

 

あんなエサみたいな食事を用意しておいて、自分は男と楽しんでいたなんて、本当に汚らわしいです。

 

 

私のクズな親のエピソード3.子どもよりも、自分を優先する

真顔の男性

 

結局、その浮気はバレて、母親は離婚をしました。

私は迷った結果、なぜか、母親についていくことを選んだのです。

 

なんとなく、そんなクズな母親でも、心配だったのでしょうね。

私は、籍も入っていない男と母親、私の3人で、暮らしはじめました。

 

小学生のうちは、よかったのです。

ですが、中・高と成長していくにつれて、男は私を女として、意識するように。

 

小さいころは気付きませんでしたが、「父親のスキンシップだ」とか言って、体をベタベタと触ってきます。

母親は、それを見て見ぬフリをしていたんです。

 

なぜなら、不倫が原因で離婚していた母親は、私の父親には、一切養育費をもらっていなかったからです。

だから、その男と別れては、金銭的に大変だったんでしょう。

 

一度、「こういうところが嫌だから、別れて欲しい」と、頼んだことがあります。

そのときにも、「あの人の悪口は、言わないで」と、クズの彼氏をかばっていました。

 

このときに、「もうこの母親には、なにを言っても、無駄だな」と、痛感した私。

自分が、お腹を痛めて産んだはずの娘なのに、母親は娘よりも、自分の保身を選んだのです。

 

「できるだけ早く、家を出なくては、私が自分が壊れてしまう!」

私は、そう感じていました。

 

自分が落ち着いて過ごせる場所なんて、母親との生活には、一切なかったのです。

 

私のクズな親のエピソード4.「育てた恩を返せ!」と、子どもにたかる

怒っている女性

 

働きはじめても、まだ一人暮らしをする余裕なんてなかったのですが、私は無理やり、適当な理由をつけて家を出ました。

そのころにはもう、母親と男との関係も、悪化。

 

母親は、「いい厄介払いができた」と、思っていたようです。

ひどい母親ですが、もうそんなことも、どうでもいいくらいになっていました。

 

ようやく手に入れた自由!

私は好きな人もできて、将来を考えてもいました。

 

ですが、そんなころ、母親と暮らしていた男が、借金をつくって、どこかへ逃げてしまったのです。

しかも、その借金のほとんどが、母親名義。

ろくでなし同士、お似合いでもありましたね。

 

生活していくだけで、いっぱいいっぱいだったのですが、母親はたまに、お金を無心してくるようになりました。

私も男に逃げられた母親が、ちょっぴりかわいそうな気持ちになっていたんです。

 

借金を返済していくことで、精一杯だった母親。

そんな母親に、「2,3万円を貸しては、遅れて返してくれる」ということを繰り返していました。

 

そのうち、借金は返済されなくなってきましたね。

でも、自分勝手に生きてきた母親が、頼る相手はそんなにいませんので、お金を貸さないわけにはいきませんでした。

 

でも、私も生活があるので、「ちゃんと返してね!」と、しっかり忠告。

その言葉になにを思ったのか、母親はこう言い出したのです。

 

「あんたを育てるのには、随分お金がかかったんだから! これくら貸して当然だよ。恩を返しなさい!」と。

挙句の果てには、「子には、親を扶養する義務があるんだ」とまで、言い出しました。

 

「この人はいつまで経っても、子どものままなんだな」

そう思い、心底がっかりしましたね。

 

母親は、私の住んでいる場所を知っています。

なので、「このままでは、私はずっと、母親に依存されたまま、生きていくしかないのかな」と、思っていました。

 

そんなとき、付き合っていた彼が、私をまともな暮らしに、引っ張ってくれたんです。

「もうこっちへこい!」と。

 

私は逃げるように荷物をまとめて、住んでいたアパートも引き払いました。

その後、しつこく携帯に電話がかかってきて、留守電にも、訳の分からないことをわめいていましたね。

「その男を誘拐犯として、警察に訴える」と。

 

「今、縁を切らないと、一生このままだ」

そう思った私は、それから10年以上、母親とは連絡を取っていません。

 

まとめ

私の母親は、替えられるものなら、ほかの母親と替えたかったほど、クズ母親でした。

もう会わなくなって、10年以上経ったので、母親に対する怒りの気持ちも、もうすでにありません。

 

「自分が、同じような母親に、ならなければいいんだ」

今はそう思い、反面教師として、たまに思い出すことがあります。