10年に一人のレベルでわめいた?私の出産エピソード7編

叫ぶ

ふたりの娘を出産したさいの、さまざまなエピソードを持つ50代前半の主婦。子どもを生むことの大変さを、体験し、世のお母さんたちの偉大さに触れ、子育てがすなわち世を動かす力であると実感する。てんやわんやの出産体験記を記す。

 

 

わめいた?私の出産エピソード1.韓国で子どもを授かる

妊娠

 

私は、結婚してすぐに子どもに恵まれました。

韓国暮らしという、高いハードルにいどんだ私は、上の子を産むだけでも超ハードな日々をすごすことになりました。

 

妊娠初期は、食べたいものがないのと、つわりで苦労。

そのころは夏で、トマトが食べたくて、トマトばかり食べていたんです。

 

冷やし中華も食べたかったのですが、韓国には売っていませんでした。

5ヶ月に入ったころ、言葉の不自由さや、こちらでの出産がどんなものなのか不安だった私。

 

結局は、日本で生むことを決意し、日本に一時帰国をして母子手帳をもらいました。

そして、また韓国に入国し、8ヶ月に入ったころ、再び日本に行くことにしました。

 

わめいた?私の出産エピソード2.まさかの痔になる

ぢ

 

その間、急激に増えた体重のため、痔になりました。

7ヶ月のころで、もともと40キロくらいしかなかった私。

 

いっきに17キロ増え、痔になったようです。

はじめは、痔だとは思いませんでした。

 

あまりの痛みに、なん度も病院に通いましたが良くなりません。

早朝に、夫に病院に連れて行ってもらって、泣きながら手術を受けることになりました。

 

日本の場合は、妊娠中に痔の手術は行わないとあとで知り、こちらにいたことで、結果的に良かったと思います。

しかし、麻酔が切れても薬の処方もなく、ただ我慢するのみでした。

 

夫が夜の仕事でしたから、退院後は夫のお姉さんの家ですごすことに。

私の痛む姿を見て、お姉さんは泣くこともありました。

 

外国に来て、こんなに痛い思いをしている私を気の毒に思ったのでしょう。

それからしばらくして、弱く規則正しい陣痛がきました。

 

早産になるかもしれなかったため、3日間入院をしました。

結局、陣痛は不思議とおさまり、退院して家に戻ったのです。

 

わめいた?私の出産エピソード3.夫も大変な目にあっていたが入院

入院

 

そのころ、夫にも試練がありました。

夜間の仕事中に、もらい事故を起こしたのです。

 

事故の後遺症で、腰痛にみまわれ、病院に入院することに。

そのときに、お財布を盗まれたりして、さんざんな目にあったようです。

 

そんな夫の事情を知りつつも、こちらでの出産は嫌だったので、強硬にも日本行きを決めます。

痛がる夫を残して、なんと情のない嫁だったでしょう。

 

日本の病院に、定期的に通ううちに、お腹が張るようになってきました。

それが、出産のサインだということでした。

 

その段階での出産だと、未熟児になってしまうので、わずかな期間でしたが入院することになったのです。

この入院で、たくさんのお金がかかり、親に一時的に負担してもらうことにしました。

 

その後、退院をして、家ですごしたのですが、母にはお金のことで嫌味を言われたんです。

そして、いよいよ破水し、陣痛がはじまったので、母と一緒にい病院へ向かいました。

ここまでの期間、とてもたくさんのお金がかかりました。

早産の危険も、妊娠中に飛行機に三度も乗ったことが、原因だったのかもしれません。

 

お腹のなかの子どもにとっても、さぞかし苦労が多かったことでしょう。

 

 

わめいた?私の出産エピソード4.出産開始

痛み

 

そして、いどんだ出産は陣痛から8時間ほどでおわりました。

その間、経験したことのない痛みに、ひとり耐えていました。

 

痛みには、弱い私。

夜中だったし、誰もそばにはいません。

 

看護師さんに、辛さを訴えますが、相手にされません。

痛くて、泣いて泣いて、泣きわめきました。

 

そんな私に腹が立ったのか、看護師さんは私を出産台に連れて行きました。

まだ、出産する状態ではなかったのですが、私はもう我慢の限界。

 

朝を迎えるころ、私と同じようにわめいていた人と、ほぼ同時に子どもが生まれました。

私は、むしろそのときは、冷静になっていたのです。

 

生まれてきた新しい命は、大きなうんちが出たかのように、するっと出てきました。

長かった妊娠期間が、やっとおわりました。

 

夫でも、私でもない、新しい命に感動です。

あとで聞くには、その病院では、私のようにわめく人は10年にひとりいるかどうかというほど、珍しかったそうです。

 

横にいた人がわめいたのも、私がうるさかったため、つられて泣いたのだと言われました。

そんなこと言われても、痛いものは痛いのです。

 

わめいた?私の出産エピソード5.韓国に戻り、さらにふたり目を妊娠

二人目

 

実家に2ヶ月ほど滞在し、夫が来てくれて、はじめての挨拶をしました。

夫が、私の両親に挨拶へきたのは、これが最初だったんです。

 

実家にいるときには、父や母がお風呂などを手伝ってくれました。

赤ちゃんでも、海外に渡るとなると、パスポートが必要です。

 

最初の写真館では寝ていて、仕方がなく次の写真館へ。

そのときに、やっと目を開いてくれました。

 

そんなこんなで、バタバタと夫と韓国に戻ってきました。

「もうこれ以上、子どもは生まない」と、決めていた私ですが、予定外のふたり目をすぐに妊娠することに。

 

出産の痛みに、また耐えなければならないことを思うと、正直不安でした。

しかし、与えられた命を消すことはできません。

 

年子で子どもを育てるのは大変だからと、中絶をすすめる人もいました。

でも、そのほうが、もっと後悔することになると思い、産むことを決意したのです。

 

前の年で、同じことを繰り返していたため、要領はわかっていました。

でも、上の子の育児をしながらの妊娠は、きついものがありました。

 

おんぶをしたくてもできず、買い物に行くのも一苦労です。

 

わめいた?私の出産エピソード6.二度目の出産

手術

 

私は、坂道のきついところに住んでいたため、買い物もままならない状態でした。

毎日、運動のような生活だったためか、またもや早産の傾向が。

 

結局は、赤ちゃんが逆子だたっため、帝王切開になりました。

そのときに、ひとりでいた私、むずかしい言葉は読み取れませんでしたが、署名をするしかありません。

 

手術台に移動して麻酔し、30分で産声が聞こえました。

普通は、赤ちゃんを生んだら顔を見せてくれるものです。

 

しかし、未熟児であったためか、顔を見ることもできず、3日後に赤ちゃんとはじめての出会いをはたします。

1740グラムで生まれた子どもは、まるで鶏肉のように小さな赤ちゃんでした。

 

夫も「これは人間なのか」と、つぶやきました。

帝王切開のあと、麻酔のないまますごした私は、ここでも泣きながら痛みに耐えることになるのです。

 

声がうるさかったのか、誰かがドアをどんと強く打ってきたことも。

しかし、痛いものは痛いのです。

 

男性も、この痛みを経験したらいいのにとも思います。

これを知ったら、女性を差別、軽視することもないでしょう。

 

入院していた下の子は、2キロになるまで退院できませんでした。

入院中にミルクを飲まなくて、一時は危ない状態でしたが、無事に退院の日を迎えました。

 

わめいた?私の出産エピソード7.その後の子育て

子育て

 

ふたりの出産で、お金がほとんどなくなってしまった夫には、申しわけなかったと思っています。

私も、その後の子育てが、とっても大変でした。

 

横になる暇もなく、朝から晩まで子どもの面倒を見るのは、若かったから可能だったのでしょう。

今、同じことをしろと言われても、無理です。

 

昔の女性は、子だくさんでしたから、どんなに苦労が多かったでしょう。

今の時代で、よかったと思います。

 

まとめ

ふたりの娘たちも、将来子どもを生むかもしれません。

私のようなお金のかかる出産ではなく、安産でお金のかからないように、生んでほしいと思っています。