母親との確執を乗り越え理解し合えたエピソード6編

怒り

母との確執のため、長い年月を不仲ですごした50代前半の主婦。
母の生まれや育ち、時代背景、暮らしを知ることで、母の気持ちを理解し不仲を解消する。母の深い愛情を知って、はじめて母に感謝することになる。

 

 

母親との確執を乗り越え理解し合えたエピソード1.辛い生い立ちの母

ストレス

 

私の母は、幼いころに家族が三人も亡くなっていました。

お兄さんは一日で死に、妹は半年で、お母さんはその二年後に亡くなったそうです。

 

母のお父さんと、母だけが残されました。

母が幼かったときの写真が、一枚だけ残されています。

 

人形のように丸い目をした母は、カメラをしっかり見ていました。

母が暮らした銅山で栄えた町は、当時、多くの人たちが仕事を求め集まってきたといいます。

 

そんななか、母のお父さんは再婚をしてふたり妹が生まれました。

妹たちとは、腹違いなわけで、それほど親しくはなかったようです。

 

大人になってからは、看護師だった叔母さんに憧れて、看護師を目指しますが勉強についていけずに断念。

かわりに、眼科で受付をしていました。

 

そこの院長先生から、大学へ行かせてもらえる話もありましたが、断ったようです。

そんな母は、20代の後半でお嫁へいきました。

 

母親との確執を乗り越え理解し合えたエピソード2.亀裂が走る

亀裂

 

母は、新しい環境のなか、第二の人生を出発します。

そこからが、また苦難の歴史でした。

 

親戚がくると、なぜか母は孤立しています。

私も、いとこたちとうまく遊べず孤立します。

 

私をかばって、母がいとこたちに、私をいじめないようにと念をおしていました。

母と私は、似た物同士。

 

成長するにつれて、祖母や父、親戚たちの関係に気づいていった私は、自分の世界にのみに生きるようになります。

周囲をみると傷つくため、自分を守るために人を寄せ付けなくなりました。

 

その当時、私たち兄弟に部屋はありませんでした。

子どもが三人もいるというのに、学習机を置く部屋がありません。

 

祖母が、そんな私たちのために部屋をつくってくれました。

しかし、母にはまったくそのことを知らせず、いきなり大工さんが家を訪れて工事がはじまったそうです。

 

できた部屋は、机を置くと寝るスペースのない六畳間。

なにもなかったころに比べたら、机を置く場所ができただけでもうれしかったです。

 

私は、端の空間に置かれた机の周りをカーテンでおおい、ひとりだけの空間をつくりました。

冬になると、五分で凍りそうなほど寒い部屋で、布団をかぶりながら勉強したのです。

 

勉強のできた私は、母にとってはうれしい反面、劣等感を感じる存在だったようです。

機嫌が悪いときには、「どうせ、私を馬鹿だと思ってるんでしょう」と、激しく怒りました。

 

このころから、母との亀裂が決定的になりました。

 

母親との確執を乗り越え理解し合えたエピソード3.母がひどいことをしはじめた

悪い

 

母との会話は、ほとんどなくなりました。

ジュウシマツを飼っていた私は、その存在で寂しさをまぎらわせていました。

 

そのインコが、ある日いきなりいなくなったのです。

母は、自分から出て行ったといっていました。

 

「インコが自分で出ていく?」おかしいとは思いましたが、納得するしかありません。

それが、母の仕打ちだと気づくのに、20年以上かかりました。

 

母は、昔から私に対して負の感情がありました。

小さいころ、ぬいぐるみがほしかったのですが買ってもらえず、家でも泣いていたら、外に放りだされました。

 

泣きながら謝り続けましたが、雨戸を開けてはくれません。

となりに住んでるおばあさんが、声を聞いて私を助けてくれました。

 

また、母は私が祖母に対して心を開くと、嫌がらせをしました。

祖母にも、母にもつけない私は、家庭のなかのことから目をそらします。

 

そんななかで、私は本を投げつけたり、シャープペンで自分の手を傷つけたり、登校拒否をしました。

手のかかる私は、母にとってみれば面倒な存在だったのです。

 

 

母親との確執を乗り越え理解し合えたエピソード4.母との会話がなくなる

喧嘩

 

高校を卒業して、大学に進みたかった私でしたが、金銭的な余裕はなく就職をしました。

そこでも私は適応がむずかしく、職を転々としました。

 

働かない期間の母の視線は、とても痛いものです。

私に心の病があって、人と同じようにできないことが、母には気にいらなかったのです。

 

そんな私が宗教にはまってから、母との会話もどんどんなくなりました。

子どもが生まれても、自分が承諾した結婚ではないため、孫などかわいくない存在だったようです。

 

ほかの姉妹の孫たちはかわいがるのに、私の子どもたちは冷遇されました。

夫から逃れて実家に帰ったときも、私の心配をしてくれる家族は誰もいません。

 

そんなふうにされることが、また悔しく母を心から恨みました。

 

母親との確執を乗り越え理解し合えたエピソード5.母からの仕打ちは続く

続ける

 

親との関係がひどかった私は、いろんなカウンセリングを受け、自分の感情と向かい合っていきました。

10年もカウンセリングを受け、心のなかにある毒を吐き続けました。

 

電話をするたびに極度に緊張し、ときには半年も連絡をしなかったりしました。

だって、電話をすると「なにか用?」と、冷たくあしらわれるからです。

 

また、ある日には、「もう、泊まりにくるのは止めてほしい」とまで、言われました。

そのときは、あまりの悲しみに、涙が止まりませんでした。

 

なぜ、こんな仕打ちを受けるのか、わかりません。

異国での孤独は耐えがたく、つらいものでしたが、それ以上に母からの仕打ちは私をどん底に追いやりました。

 

子どもたちも、かわいそうな立場でした。

 

母親との確執を乗り越え理解し合えたエピソード6.父の死によって母が変わる

変化

 

そんな母との転機は、父の死によってもたらされました。

母が家でどのように扱われていたのかを知り、その壮絶さに言葉を失うほどでした。

 

母がされてきたことは、とても私には耐えることができるものではありません。

そんな事情や心情を知った私は、母もまた、孤独ななかを必死に生きてきたことを知りました。

 

昔話を真剣に聞いた私の気持ちが通じたのか、今まで誰にも言えずにきたことを言えたようです。

母が好きだった俳優、母の青春時代、仕事の話、どれも新鮮に聞こえました。

 

母は年老いた、小さな人になっていました。

かつてのような、反目しあう気力などもう残ってはいません。

 

私も母のことをずっと考え、思ってきました。

母のことを理解しようと懸命でした。

 

今は、母に1週間に1度は電話をしています。

長い間、お互いを憎みあいながら生きてきましたが、心をかよわすことができたのは、心からうれしいことです。

 

 

まとめ

母は、私がくることを楽しみにしてくれるようになりました。

次に、会える日がまたくることを心から願っています。

 

それまで、元気でありますように。