夫が失業し地獄の生活から復活したエピソード6編

微笑む女性

50歳。女性。離婚歴,死別歴ありのバツ2。

三人の息子のシングルマザーで、心理カウンセラーをしています。

 

個人的、第二次世界大戦と思うほどの苦難、困難を数えきれないほど体験。

鬱になったり、死にたいとまで、考えたこともありました。

 

現在はようやく静かで穏やかな毎日を送れるようになり、第二の人生を楽しみながら、体験を活かして、「同じような思いをしている方々の、支えになりたい」と、常に思っています。

 

 

地獄の生活から復活したエピソード1.夫が失業して役所に融資を受けに行った

市役所

 

夫が失業したのは、三男が生まれる前の妊娠中でした。

失業手当ての申請に行きましたが、実際に支給されるのは3ヶ月後。

 

預金もなく、困り果てて、役所の福祉課に融資のお願いに行きました。

借りることができた額は、300,000円。それを出産費にあてることに。

夫は「すぐに仕事を見つける」と言いましたが、職業案内に行く様子もなく、生活に困りました。

 

夫は仕出し弁当会社に勤めていて、店長をしていたため、棚卸しで賞味期限の迫った調味料や冷食野菜などを、大量に持って帰ってきていました。

そのため、しばらくはそれで、食つなぐことができたのです。

 

お米はストックがあったため、ひと月はそれで持ちました。

しかし、長くは持たず、とうとう米がなくなってしまったのです。

子どもたちは私の実家で食べさせてもらい、私たち夫婦は水を飲んで、空腹をしのぐ毎日。

 

保険はすべて解約したことで、200,000円ぐらい戻ってきました。

ひと月の生活分にはなりましたが、病気や怪我で入院したときの保証がなくなってしまう形に……。

 

そして、実際に息子たちが熱を出しても、病院に行かれない状態になってしまったのです。

冷蔵庫で氷をつくって、氷枕で頭を冷やし、薬箱にあった小児用バファリンを飲ませて、なんとか回復しました。

 

地獄の生活から復活したエピソード2.とうとう生活保護に

恐怖を感じる女性

 

嫌でしたが、「生きるのが限界」と感じて、生活保護の申請に。

役所の調査で、夫がアルコール依存症と不安神経症の診断が下りたため、申請は通過。

生活すること自体は安定しましたが、やはり、世のなかを堂々と渡る自信がなくなり、外に出て知人に会うのが、辛くなってしまいました。

 

実際に保護を受けていた間は、私は近所の方から、嫌がらせを散々受けましたね。

対等に人と付き合うことができなくなりましたし、友人とも、たまにしか会わないように。

 

また、何人かは縁を切られました。

父からは「みっともなくて、俺まで親戚に合わす顔がない」と言われ、私は次第に外を歩くことにすら、恐怖を感じるようになったのです。

 

そして、産後は50キロ近くあった体重が、34キロまで一気に落ちました。

肋骨骨や鎖骨がハッキリと浮きでるほど、痩せてガリガリに。

それでも 「働いて世間や親を見返したい」とずっと考えていました。

 

地獄の生活から復活したエピソード3.子どもを保育園に預けてかけ持ちして働いた

疑問に思う女性

 

三男が一歳半になってから、私は朝から晩まで二つの仕事をかけ持ちして、働きました。

なぜ、それまで働かずにいたかというと、産後直ぐから体調が優れなく、頻繁にめまいや動悸が起こったり、熱を出して寝込むことが多かったからです。

 

しかし夫は、私が働くのを尻目にしながらも、まったく仕事を探そうとはしませんでした。

そればかりか、昼間は病院で知り合った、自転車で行ける範囲に住んでいた友人と、遊びほうけていたのです。

 

当時は皆、任天堂のゲーム機を持っていましたが、うちだけは買ってやれませんでした。

それでも文句を言わず、「友だちのところでやるからいいよ!」と言ってくれる長男。

しかし、実際にはお友だちの家に行っても、「定員オーバーだからダメ」と言われ、仕方なく、小さな子たちや同じく貧しい家の子と、外で遊ぶのがお決まりでした。

 

また、生活保護を受けていることは、長男の同級生のママたちには話していなかった私。

しかし、父親が毎日のよう家にいて、保育園の送り迎えや買い出しのほか、家事全般をしていたため、目撃されたことも多々あったのだと思います。

どう見ても健康そうなのに、「なぜ働かないのか、不思議」と思われていたと思いますね。

 

実際に長男の同級生や近所の子から、「〇〇くんのお父さんは、なんでおウチにいるの?」と聞かれたことも。

「病気なのよ」と誤魔化しましたが、身体は健康でしたので、主人に対して、「あの人のおかげで、私たちは肩身が狭い」と思っていました。

 

 

地獄の生活から復活したエピソード4.過労で何回も倒れた

倒れる女性

 

私は三人の息子を出産するごとに身体が弱くなっていった私。

それでも気力を振りしぼり、働いていました。

 

主人は入退院を繰り返しながら、断酒できている間は家事や送迎はしてくれていましたが、一向に働こうとはしません。

私の感覚からすれば、働く気さえあれば日雇いの土方仕事なり、すぐにでもできる仕事はいくらでもあるのに、なぜ働かないか不思議でした。

 

そして、私自身は年に何回かの連休は必ず、過労から倒れて寝込んでしまう状態に。

休みには「遊びに連れて行く」と約束していても、守れないことが多くて、子どもたちが不憫に思えて、身体の弱い自分自身を責めることも。

 

自ら命を絶とうとしたことも、何回もありましたが、「子どもを残しては無理」だと思い、踏みとどまるのでした。

 

地獄の生活から復活したエピソード5.子どもにまで大きな影響が・・・

卓球

 

長男が中学に入る歳に野球部、柔道部、サッカー部、テニス部などは合宿なともあり、「お金がかかるから、入らないで欲しい」とお願いしました。

もともと、スポーツはあまり好きではなかったのですが、伝えるのは辛かったです。

 

結局、卓球部に入りましたが、ラケットを選ぶ際に気を使って、高くないものだけをピックアップして選んでいましたね。

普通のお宅のお子さんたちは、普段履くスニーカーなども、流行りの10,000円以上するようなものを履いていたり、バッグや洋服も流行りのブランド品を買ってもらっていました。

しかし、我が家は三人ともお下がりをもらうか、兄のお下がりを着せるしか、方法がなかったです。

 

買う場合にはとにかく安いもの、リサイクル品をしか買えないため、息子たちは友だちから、からかわれたこともありました。

 

地獄の生活から復活したエピソード6.夫と両親が亡くなり遺族年金と親の遺産で食べ放題バイキングなどに連れて行った

焼肉

 

その後、両親と主人が一年半の間に相次ぎ亡くなり、私には遺産と遺族年金が残されました。

ずっとさまざまなことで、我慢させてきた子どもたちに、なにかしてやりたく、ますは焼肉バイキングに連れて行くことに。

 

ディズニーランドに一泊で行ったり、そのあと知り合った友人の車で、旅行やキャンプにも行きました。

そして私は念願だった、整体師のスクールに通い、ようやくやりたかった仕事ができるようになったのです。

 

まとめ

長く苦しく、金銭面以上に精神的に地獄のような生活でしたが、やっと解放され、世間から白い目で見られることもなくなり、「生きてきて良かった」と思います。

私にとっても、息子たちにとっても、人生で一番辛かった8年でした。