典型的なモラハラ夫と結婚した、50代前半の主婦。
結婚する前はとても優しく、家族や友人たちの信望も厚く、「この人となら幸せに暮らせる」と思い、結婚に踏みきりました。
しかし、夫はだんだんとモラハラの様子を見せはじめ、「なにかがおかしい」と感じはじめたころには、子どももおり、離婚するにも離婚できない状態に。
結局、いったん別居に踏み出し、今現在別居10年目になる。
経済的な理由や、夫の子どもへの愛情を考えて、離婚はしないが再同居も考えていない、実に宙ぶらりんな形の夫婦。
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モラハラ夫と別居するまでのエピソード1.夫との価値観の違い
モラハラがどういうものか知らなかった私は、結婚後、献身的に夫に尽くしました。
しかし、夫とは最初から、ウマが合わなかったのです。
考え方や価値観のずれが、一緒に暮らすにつれて、大きくなりました。
たとえば、私は夜は早く寝たいのですが、夫は遅い時間でも、友人を連れて家に招待することがしばしば……。
お酒を飲まない私は、お酒を飲んで酔っ払う夫の姿を見るのが、嫌でたまりませんでした。
しかし、社会生活をしていくうえで、お酒は大事なものだと言うのです。
そして友人たちが家に集まれば、幼い子どもたちがいるのに、大勢でたばこを吸いました。
たばこの煙を避けるために、子どもたちと部屋に閉じこもるしかありません。
お酒とたばこだけをとっても、夫婦間の深い溝が生まれていました。
義母は早くに義父を亡くし、田舎に一人暮らし。
家は、昔の家特有の不便な間取りで、トイレは外でした。
真っ暗ななかを外に出て、トイレに行くのは苦痛でしたね。
最初は夫に「ついてきてくれ」と頼まれた私。
そんな不便さが私にはどうしようもなく苦痛で、義母に対してはなんの感情もありませんでしたが、田舎に行くのは嫌でした。
そんな私を見て、夫は非常に不満を抱えていたようです。
モラハラ夫と別居するまでのエピソード2.新しい環境での夫の姿
子どもが大きくなり、教育費にお金がかかるようになると、夫は職を変えるために、住居を移すことに。
そこは、それまで住んでいたところから遠かったので、方言もあり、その仕事は私も、手伝わなくてはならない仕事でした。
しかし、夫は私に対して、とくに説明するわけでもなく、勢いに押されるような形で、あっという間に住所を移し、子どもも新しい環境での学校生活になったのです。
家族全員が新しい環境での出発をすることになり、誰もがストレスを抱えての日々がはじまりました。
そのころからです。
夫と一緒に仕事をするにつれ、夫の姿が以前より、見えはじめるようになりました。
夫は小さなことで怒るように。
私も仕事でくたくたでしたし、子どもの面倒も見ながら、家事一切をやらなければなりません。
ちょっと触っただけで、怒りをまき散らす夫に、嫌悪感しか感じませんでした。
物事を細かく見られるというのは長所ですが、妻の立場からすると、重箱の隅をつつかれるような思いになります。
夫との生活が6年を迎えるころには、不眠がひどくなり、引っ越してからというもの、まともに寝られる日がなくなりました。
モラハラ夫と別居するまでのエピソード3.心身不調の末
仕事のストレス、夫からの攻撃、子どもの面倒、家事、やらなければならないことは山のようにあります。
外では私を褒めるのに、家では私をけなし、無能力者扱い。
お酒を飲むと絡んでくるので、夫が帰るころには、子どもたちと一緒に、部屋に閉じこもりました。
ときには、「ドアを開けろ」とドンドンと叩き、恐怖を感じながら、暮らさなければならない状態に。
睡眠がとれない苦痛が限界に達し、精神科の門をくぐって、睡眠剤を処方してもらった私は、何年ぶりかの深い睡眠をとれるようになりました。
「少しだけ薬を飲めば、睡眠はとれる」と思っていましたが、薬なしには、もはや眠れない体になってしまったのです。
夫からの攻撃によるトラウマから、フラッシュバックが激しくなり、過呼吸が急に襲ってきて、息が苦しくて死ぬのかと思うほどの、苦痛にのたうち回りました。
そのころ唯一の心の慰めは、当時書いていたブログによる人々との交流。
外の人々はとても暖かく、ときには励ましてくれ、鬱に対する知識も、少しづつ得ていくようになりました。
モラハラ夫と別居するまでのエピソード4.実家への避難
しかし、問題は夫との関係でした。
夫は徹底的に、私の人格を攻撃したのです。
私に「できる仕事などない」、「親戚の皆がお前を嫌っている」など、ひどい言葉をさんざん浴びせられた私は、夫の前で倒れました。
倒れて歩けなくなった私を見ても、なにもせず、ベッドに移動し、休息をとっていた夫。
「これはダメだ」と思った私は、精神科の先生に電話して、助けを求めました。
「こちらにきてください」と言われましたが、タクシー代もありません。
横になっている夫に、頼むしかありませんでした。
足もとがふらふらになっている私が、演技をしたと思ったのか、「そんな歩き方をするな」と、怒鳴ってきたのです。
まるでごみを持ち歩くかのように、私を車に押し込んだ夫は、精神科まで連れて行ってはくれました。
しかし、そこでも怒鳴り続けたのです。
その病院は入院施設がなく、6時になったら帰らなくてはいけません。
いったん家に帰ってきた私を、子どもたちがどう迎えてくれたのか、記憶にないほど、とてもきつかったですね。
事情を知っている友人に電話をして、しばらく、友人宅に身を寄せて、避難するしかありませんでした。
夫には手紙を書き残し、「しばらく、友人の家と実家に帰る」と伝えた私。
それを見た夫や小姑からの電話が、ひっきりなしに鳴りました。
それらをすべてを無視して、友人の家を経由して、実家に帰ることにしたのです。
モラハラ夫と別居するまでのエピソード5.実家での仕打ち
しかし実家では、思わぬ反応が待ち受けていました。
「あなた一人ならば受け入れるが、子どもは置いてこい」と言われたのです。
そんなことはできない私は、実家の家族からの冷たい視線にも、耐えなければならず、病状も思わしくない私には、まさに生き地獄のような帰省になりました。
実家には、10日ほど滞在。
そのまま離婚して、子どもたちと暮らすことも考えましたが、動くこともままならない私に、経済力はまったくありません。
そのうえ、実家の支援も受けられない状態では、子どもたちの苦労を考えると、到底無理な選択でした。
とくに母からの子どもへの仕打ちが、私を夫のもとにいったん帰るという、結果をもたらしたのです。
モラハラ夫と別居するまでのエピソード6.再び夫のもとへ
夫のもとに帰った私に、待ち受けていたものは、さらにひどい虐待でした。
それを十分予想していた私は、ひたすら耐える毎日。
どんなひどいことをされても、お金の前に屈服するしかありませんでした。
その間、子どもたちの気持ちを考える余裕は少しもありません。
そんな私を見た夫は金の腕輪をプレゼントしてくれましたが、そのあとは、また怒りをぶつける夫。
優しくなったり、怒ったりする夫の感情に振り回されていた私は、ほとほと困り果てていました。
モラハラ夫と別居するまでのエピソード7.別居
そんなとき、家の大家さんが喧嘩ばかりしている私たちに、出ていくように言われました。
しかも、夫も「出ていけ」と言ってきたのです。
「どこでもいいから、出ていけ」という夫の言葉を真剣にとらえた私は、出て行って、子どもと暮らすという道を選択。
夫と暮らしていく自信など、まったくなかった私は、早速引っ越しの準備に取りかかりました。
意外にも、夫は協力的でしたね。
そのころには、夫は夜も帰ってきませんでしたが。
夫の言葉どおりに、出てくることに成功した私たち親子でしたが、夫の本心は、私が素直に謝罪して、そのまま暮らすことだったかもしれません。
実家からの援助もなく、夫のいない生活も想像できませんでしたが、とにかく私は生きる選択をしました。
「私が生きなければ、子どもたちも死ぬ」と思っていたのです。
「経済面の負担は夫がそのまま責任を持ち、住居だけ別にする」という、とりあえずの選択でしたが、それからも紆余曲折を経て、今に至ります。
モラハラ夫と別居するまでのエピソード8.休養
病状が悪化していた私は、まずは休養しなければなりませんでした。
医者もいくつもかかり、相性のいい医者を探すと、そこで薬物療法を受けながら、心身を休めることに集中。
その間、子どもには手をかけることができなくて、のちのち子どもにも不調の波が訪れるのですが、この選択が私にとって最善の選択でした。
お酒を飲んで暴れる夫の姿を見ないで、暮らせるだけでも、幸せな毎日を送れるようになったのです。
モラハラという言葉に触れるようになったのは、別居してから何か月か経ったころでした。
自分が体験してきたことは、まさにモラハラそのもの。
虐待の真っただなかにいるうちは、おそらく、その仕組みを知るには過酷だったのでしょう。
少し安定するころになったからこそ、その事実を受け入れられるようになったのかもしれません。
まとめ
別居は結局、10年を超えて、今に至ります。
離れて落ち着いたからか、今は夫のモラハラは受けません。
こんな状況でも、離婚は考えていません。
しかし、再同居も考えていないのです。
このままどこに行くかわからない状態ですが、先のことは考えず、今に集中して生きることを最優先にしています。