実家が貧乏だった50代前半の主婦。
家も古く、増築を繰り返したため、家のなかを移動するのも、面倒な造りになっている。
動線が悪いため、どこに行くにも開け閉めをするのが不便。
トイレは汲み取り、洗濯機は外にあります。
「今どき、このような家に暮らす人はあまりいないだろう」と推測する。
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貧乏エピソード1.私の実家
私の実家は築70年になります。
祖父が土地を買い、家を建てました。
そのあたりには、家はほとんどありません。
姉が幼いころ、母にぶら下がっている写真が残っていますが、砂利道で周囲に家がなかったのが分かります。
祖父は土地をたくさん持っていましたが、生前すべてを売り払っています。
残った土地は今の実家の土地のみで、200坪をちょっと欠けるぐらいの広さでした。
貧乏エピソード2.赤字経済
昔ながらの造りの家は、それでも頑丈につくられていました。
しかし、家計は土地と家に反して、いつも赤字だったようです。
父が亡くなってから仏壇を開けたら、祖母が当時書いていた家計簿が見つかりました。
父の兄弟が結婚した時期は、赤ちゃんラッシュで、いとこはほとんど同じような年です。
自転車操業を見かねた母は、母の実家に頼んでお金をもらい、借金返済に充てたそう。
しかし、その事実は誰も知りません。
家計は祖母が握っていましたから、母は居候のような立場でした。
貧乏エピソード3.シャワーへの遠い道
私たち姉妹が思春期に差しかかるころ、姉はシャワーを付けてくれるように、祖母に頼んだそうです。
年の順にお風呂に入ると、最後のほうは垢が浴槽にたまっていて、見かねた姉がシャワーを欲しがりました。
しかし、「そんなものは必要がない」と足蹴にされたそうです。
私は特別気にはしなかったのですが、オシャレに気を遣う年齢になった姉には、我慢できなかったのでしょう。
貧乏エピソード4.ぽっとんトイレ
和式トイレは二つありますが、初孫ができた24年くらい前に、「赤ちゃんが落ちたら大変」と、穴の小さなトイレに変わりました。
それまでは下をのぞけば前に使った人の便が見える、いわゆるぽっとんトイレ。
幼いころはそのトイレが怖くて、「もし足を踏み外して、なかに落ちたらどうしよう」と、真剣に悩んだ時期もありました。
近所の友だちの家には、そんなトイレはなく、水洗トイレがほとんど。
「なぜうちはいまだに、汲み取り式のトイレのままなのか」と、嫌で仕方がありませんでした。
「落ちるかもしれない」という恐怖もありますが、家のなかにある、下が丸見えのトイレからは、常に匂いが漂うのです。
トイレの横の位置には、洋服ダンスがあります。
「トイレの匂いが染みついてしまうのではないか」
「人にはその匂いが分かるのではないか」と、気になった時期もありました。
市の計らいで、水洗トイレを安くつくれるときがあったようなのです。
その際、母が父に、「水洗トイレにしてくれ」と頼んでも、答えはノー。
汲み取り式のトイレですから、市の汲み取り業者さんが、一か月に一度は汲み取りにきます。
その様子を見ると、大変な仕事だと思いますが、周囲に汲み取り式のトイレをいまだに使う家はうちと、うちの前の一軒のみ。
なので、母は「貧乏ゆえの恥ずかしさで、たまらない」と言っていましたね。
祖母も父も、昔ながらの人だからでしょう、
新しいものを受け入れることが難しかったのでしょうが、絶好のタイミングも彼らによって失っていったのです。
貧乏エピソード5.部屋がない
娘が三人もいるのに、祖母は部屋を使わせてくれませんでした。
六畳一間をつくってはくれましたが、寝るには狭すぎる広さ。
20代の後半になってもまだ、両親の横で寝なければならない状態だったのです。
一人部屋に憧れた私は、部屋を持っている友だちが羨ましくて、仕方がありませんでした。
寝る場所がないことから、玄関で寝ようと思ったこともあります。
玄関だったら、一人なら寝られるスペースがあったからです。
それはさすがに止めましたが、「子どもを生むのなら、子どもの部屋くらいは準備して生んでほしい」と、正直思いました。
「部屋をつくれないなら、生まないでくれ」と両親に訴えたかったです。
ですが、朝から晩まで働く両親の姿を見たら、言うことはできませんでした。
貧乏エピソード6.質素な食事
食事も常に質素でした。
食卓には、いつも同じような料理が並びます。
祖母は毎日うどんをこねては、夕飯に出していたそうです。
毎日うどんだったせいで、姉はうどんが嫌いになったと言います。
私は不思議とそのうどんが嫌いではなく、むしろ「今でも食べたい」と思うほど、おいしいうどんでした。
それが手づくりだったと知ったのは、父が亡くなったあと。
家族が多かったため、食費を浮かすために、手づくりしていたのです。
そんな私が社会に出て、飲み会などに行くと、見たことのない食材や、料理を外で見る機会が増えました。
自分の家の食事しか知らない私は、「世のなかには、こんな料理もあるのか」と驚いたものです。
そのエピソードの一つに、エビは過熱する前は黒い色だということを、成人してから知りました。
エビが食卓に出た記憶がありません。
エビフライなら食べたことはありますが、赤くなっているエビしか知らないため、カルチャーショックに似た感情を抱きました。
とはいっても、私は食が細かったので、あまり食べ物を食べられなかったと思います。
貧乏エピソード7.屋外の洗濯機
洗濯機が外にある我が家。
そのため、横の道から洗濯機が見えるので、洗濯をしていると、歩いている人から見られてしまうのです。
母は朝6時になると、洗濯機を回すのが常でしたから、周囲の家にもその音が聞こえます。
私は時間に関係なく洗濯をしたいので、外から丸見えの洗濯機が嫌でした。
冬になると、水道が凍ります。
外に出て、洗濯機を回すために出るのは苦痛でした。
しかも二層式で、何度も出ないといけません。
これがまた、私の羞恥心を刺激しました。
まとめ
家も貧乏、貯金もほとんどない生活から、母は私たち姉妹が幼いころ、服を縫ってつくってくれました。
衣服にかかる費用も節約していたのです。
社会に出てから人と比較してみると、「うちはなんと貧乏だったのか」と驚きます。
父の死後、死亡保険金が下りたことから、「ユニットバスや水洗トイレにしよう」と姉が動いてくれました。
しかし、お金がたくさんかかることから断念。
もはや家の一部をピカピカにするくらいなら、家ごと全部新しくしたほうが良さそうです。
娘たちはおかげさまで貧乏な暮らしをしていません。
ですが、一人残された母に、「便利な生活をしてほしい」という願いはそのままあります。