韓国在住の50代前半の女性。
某宗教団体の合同結婚式で、韓国に渡ってくる。
右も左もわからない異国の地で、夫と結婚生活をするが、価値観、目的の違いのため、ただいま別居中。
人生七転び八起き。逆転ホームランを打つ日を希望中。
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某宗教団体の合同結婚式に参加したエピソード1.合同結婚式に参加
私はかつてマスコミに騒がれ、有名になった某宗教団体の合同結婚式に、参加しました。
周囲から非難を受けることを覚悟して、自分の人生をかけて、まさに命がけで、結婚式場である韓国ソウルに向かったのです。
家族の了承を受けることなく、誰の祝福を受けなくても、それ以上に価値があり、幸せになる道だと信じて、単身韓国に向かうことになりました。
当時、日本の教会の女性は未婚者であふれており、教祖が合わせてくれる相手を長い時間待っていた、教祖を信仰している女性たち。
教祖に紹介される相手は、自分にとって一番ふさわしく、先祖7代先までさかのぼり、子孫の7代後まで見て選ぶ相手だと、信じさせられていたため、信仰が長くなるほど、辛抱強くそのときを望んできました。
韓国では、田舎などに暮らす未婚の男性が、あふれている状態。
田舎では嫁にくる韓国女性が激減し、一生結婚できないことを悲観した男性たちの多くが、自ら命を絶ったりして亡くなっていました。
新聞の広告で、日本人女性と結婚できると宣伝した教会に、男性たちは希望を持って集まってきたのです。
そんな事情など、おたがいに知らない男女が、一堂に集まって結婚式をとり行う様子は、日本のマスコミにも広く、知れ渡りました。
連日教会叩きの報道が繰り広げられ、肩身の狭い思いをしましたが、当時、信仰で固められた頭の私には、大した影響もありません。
むしろ「先駆けて幸せの道に進むのだと、そこに参加できることが、ありがたいことなのだ」と思い、外部からの迫害が大きければ大きいほど、内側の秘める思いは強くなっていきました。
韓国、日本の隅々から集まってきた純粋な若者たちは、両国の間にある歴史的な感情を吹き払ってしまえるほどの勢いで参加。
私も夫も、「おたがいの言葉は通じなくても、きっとよい家庭を築ける」と思っていたのです。
夫の親族はほとんどきてくれ、私が自分の親戚に結婚式に参加すると、一言も言えずに出てきたものとは違っており、皆喜んで迎えてくれました。
某宗教団体の合同結婚式に参加したエピソード2.ソウルの教会での生活
そして結婚式から4か月後、韓国領事館で同居ビザをもらった私は、厳寒のソウルに旅立ったのです。
ソウルでは、まず教会に配属。
その教会は坂道をずっとあがって行かなければならず、雪の多かった日には、滑って転ばないか、いつもひやひやしていました。
教会で暮らしていたのは日本人、韓国人、フィリピン人。
人数はおおよそ、20人ほどでした。
地下の部屋には、スーツケースや荷物がずらっと並べられ、隅には大きな埃が。
やることは、新聞配達です。
韓国にきたならば、底辺の仕事からはじめるということで、朝4時には起き、真っ暗な街並みを一人で、黙々と配達。
韓国で暖房としてよく使われる、灯油のボイラーの音が静かな町に響いていました。
電球は黄色く、迷路のような狭い道を歩くのは、正直怖いものがありましたね。
まだ20~30代の若い女性が、人気のない道を歩くのは、今考えても、危険と言えるでしょう。
そんな危険と隣り合わせの生活でしたが、4か月先には夫と暮らせるという希望を持って、教会の言われるままにするしかありませんでした。
某宗教団体の合同結婚式に参加したエピソード3.教会へ従うことで不満が積もっていく
そして4か月後、念願の家庭を出発。
年が若い人は何年も家庭を出発できず、教会で奉仕活動をしなければなりませんでした。
長い人は、4年も別々に暮らしたそうです。
その間は夫婦生活はご法度でしたから、信仰のない韓国の男性は待ちきれず、しびれを切らしていました。
戸籍上は夫婦なのに、なにもできないことを知っていた女性は、夫からの要求を拒むしかなく、なかにはそれが原因で、離婚になることも。
夫は素直で純粋でしたので、教会の言うままに待っていました。
私は入教して、10年して結婚したので、待ちに待った夫です。
夫は結婚式の数か月前に、結婚目的で入教。
価値観、目的の違う二人が、その後いろんなことで葛藤し、苦しむのは当然のことでした。
教義によれば、合同結婚式で結婚することで、人間の原罪があがなわれ、そこで生まれた子どもは、原罪のない神の子であるとのこと。
「血統転換ができる」と純粋に信じていた私と、結婚するのが難しくて、入教した夫とは、考えが合いませんでした。
日本人の女性は、夫の言うことより、教会長の言うことを優先。
夫の立場からしたら、ありえないことです。
修練会などがあれば21日でも、40日でも参加する女性たちに不満を持つのは、もっともなことでした。
私も子どもを預けて21日の修練会に参加しましたが、夫の許可もろくにもらえず、激高した夫が教会に抗議の電話をして、家に帰れるのか、不安になるほど。
しかし、教祖が「こい」と言えば、行くしかありません。
そんな私たちの間に、亀裂は少しづつ大きくなっていきました。
某宗教団体の合同結婚式に参加したエピソード4.うつになり別居生活へ
教会を優先してきた私に転機が訪れたのは、夫に人格障害があることがわかり、私が鬱を発症しはじめたころです。
半ば義務感、使命感で通ってきた教会生活に、私が適応するのが難しくなりました。
鬱のため、動けません。
夫からの迫害も日に増して大きくなり、「もうこれ以上、一緒に暮らすことは不可能」と判断した私は、韓国内で引っ越しを決意。
今に至るまで、10年別居生活をしています。
教義を信じ、なにもかもを犠牲にしてきた結果は、やはり周囲が心配したとおりのものになりました。
今では、私も教会のやり方や教義に疑問を持っており、異国の地での孤独な暮らしは正直こたえます。
家族とも、めったには会えません。
それでも、結局は自分が決めたことであることには変わりなく、子どもに対する責任を考えても、簡単に離婚に踏み切れない状態。
なので、現状維持のまま、これからもしばらくは、別に暮らすことになると思います。
まとめ
人生の第二の出発は人によって決められてしまいましたが、これからの人生は自分で、いくらでも変えられます。
苦い経験は決して失敗ではなく、それを通していろんなことを学びました。
世のなかの多くの人が失敗をするように、私も多くの失敗をしましたが、実はそこからしか、得られないものがあるのです。
失った分、その空白はうめられるものだと信じて、今を生きています。