44歳、女。進学を反対されて親の仕事を手伝っていたのですが、ある事件に巻き込まれ不自由な体になってしまいました。
子どものころのことは、ところどころ記憶がなくなっています。今は問題はあるものの、とても優しく大切にしてくれる主人と出会って幸せに生きています。ただのアニメとゲームが好きな、普通の専業主婦です。
私の人生は苦労ばかり1.姉妹の命の加害者扱い
私には生まれたとき、姉がいました。
姉は2歳でイヤイヤ期で、母が出産のときは、父と家で留守番をしていたんだそうです。
私は生まれたとき呼吸をしておらず、医師や看護師が一生懸命に、蘇生をしてくれたのだそうです。
ですがなかなか呼吸ができず、「もう、だめだ」と諦めかけたときに泣き声を上げました。
母は心底、安心したそうなのです。
ですが、そのとき家では姉が自分で窓を開け、10m下の道路に飛びこんだそうです。
姉は即死でした。
その後、私が3歳のときに妹が生まれました。
私は風邪をこじらせて、肺炎を起こし入院中でした。
妹は泣くこともなく、死産となってしまいました。
私の父方の祖母は、それを私のせいだと思ったようでした。
姉妹の墓のある祖母の家に行くと、「忌み子だ!近寄るな人◯し!」と怒鳴られ、玄関から追い出されてしまいました。
それからは、一度も会ってもらえませんでしたし、父側の親戚からは酷い扱いを受けました。
私の人生は苦労ばかり2.無理心中未遂
父方の親戚関係との亀裂で、両親は喧嘩ばかりしていました。
私が小学一年生のころ、6歳くらいのことだったと思います。
お酒を飲んでいた父が包丁を持ち出して、「もうみんな死のう」と言って、フラフラと私のほうに歩いてきました。
記憶は途切れとぎれなのですが、父が私の首に当てた包丁の冷たい感触は、今でもハッキリと覚えています。
なにがどうなったのか、その辺りは記憶がないです。
覚えているのは、母に手を引っ張られて、裸足で夜の道を走っているところです。
「もう家にはかえらないの?」「友達と会えなくなる。さよならって言ってない。」と、こう言ったことは覚えています。
母はただ、「それは無理」とだけ言って、私の手を引っ張るだけでした。
裸足だったので注目は集めていましたが、母の実家まで電車で行きました。
途中の駅でうどんを買って、電車のなかで食べたのですが、とても美味しく感じました。
大人になってから、母に「あれはどこだったの?」と聞いて、その駅まで食べに行ったことがあります。
私の人生は苦労ばかり3.捨てられた
母は実家には帰らず、実家のそばにある知り合いの所に行きました。
牛小屋のなかの、3畳ほどの畳の部屋で世話になることになりました。
理由は分かりません。
その小屋には牛が2頭いて、トイレがないので、ポータブルトイレをおいていました。
電球は、豆電球しかないので夜はかなり暗かったです。
テレビもなく、あるのは小さなキッチンと布団だけでした。
お風呂は、牛小屋の持ち主の家で借りて入っていましたが、ご飯は自分たちで用意しました。
チキンラーメンの半分をふたりでわける、ときどきのご馳走はわけてもらった野菜をゆでたもの、そんな毎日でした。
2週間くらいたったころ、私は学校に通うことができるようになりました。
ですが、すぐに高熱を出してしまい休んでしまいました。
そんなとき、母は「買い物に行ってくるから、おとなしくして待っててね」と言って家を出ました。
子どものころなんて、おとなしく待っているわけがなく、私は動物ごっこをして遊んでいました。
四つんばいになり色々な動物になりきる、というような遊びです。
そんなことをしていれば、熱はさらに上がるのは当たり前で、私は鼻血が止まらなくなってしまいました。
あまりにも止まらないので、牛小屋の持ち主の家に行ったものの、誰もおらず小屋に帰って寝ました。
その後、母は何時になっても帰ってきませんでした。
翌日も、その次の日も帰ってきませんでした。
気がついたら、私は病院のベッドで寝ていました。
肺炎になり意識がない状態の私を、牛小屋の持ち主の人が見つけて、祖父母に知らせてくれたんだそうです。
私は、そのまま祖父母の家で暮らすことになりました。
あとで知ったのですが、布団の下に「子どもをよろしくお願いします」と、書いた紙が出てきたそうです。
私の人生は苦労ばかり4.売られた
これは、書くことをかなり躊躇したのですが、私のなかでかなり大きく影響していることなので、書こうと思います。
私は、小学3年生まで祖父母の家で育ちました。
今でも、「あのとき祖父母の家から離れなければ」と強く思っています。
夏の日の夜、突然、母から電話がありました。
「机もベッドも用意してあるから、また母さんと暮らしてくれないか」と。
私は凄くうれしくて、「すぐに行く」と言いました。
それからすぐに、祖父母や母が手続きをしてくれて、母のもとに戻りました。
母は、朝からお酒ばかり飲んでいて、家のことをやらなくなっていたので、自然と私は家事を覚えました。
母には彼氏が二人いて、毎日のように交互に来ていました。
そのうちの一人は既婚者でした。
私は、その既婚者のほうの男性に懐きましたが、しばらくすると来なくなりました。
もう一人の人は、来ているときはいつも、母もその人も裸だったのです。
それが、気持ち悪くて大嫌いだったので、学校から帰ってきたときに家にいたら、外に出るようにしていました。
しばらくして母は、その人と結婚すると言い出しました。
私は反対することもできず、とりあえず認めました。
ですが、その人はロリコンだったんです。
私は、とても怖ろしい経験をすることになってしまいました。
母は私に言いました。
「生きていきたければ、それくらい我慢しろ」と。
「誰が食わせてやっているんだ。誰のお陰で学校に通えているんだ」と。
しかも「嫌なら出て行けばいいけど、育てるのにかかったお金は1000万を払いなさい」と。
「逃げたら、母さんがそれを払わなきゃならないのに、どうしてくれるんだ」と。
今なら嘘だとわかるのですが、当時はそんなことはわかるはずもなく、稼ぎの良い義父に売られてしまいました。
まとめ
それがキッカケで、私はこのあともずっと、ここでは書ききれないほど、波乱万丈な人生でした。
本当に、なぜあのとき、母のもとに行ってしまったのかとずっと後悔しています。
できることならば、あのときの自分を止めたいです。
止められたなら、「私は今、自由に外を歩ける体だったのかな」と、ふと思ってしまいます。