生きるのは難しいし大変だと感じたエピソード4つ

泣いている女性

45歳女性。

旅行関係の仕事についていましたが、夫と出会い、介護と仕事、そして家事を頑張ってきました。

近くに両親が住んでいたので、「いつかは、親の介護もかかってくるだろう」と、覚悟している私です。

 

趣味は「節約」と「読書」。

今は、なんとか少しだけ復職して、ほかの家族の介護をしながら、生活を守っています。

 

 

生きるのは大変だと感じたエピソード1.夫が脳出血で倒れた!

手術

 

私が生きるのが大変だと感じたのは、家族全員が立て続けに大きな病気をしてしまったときです。

私の家族は、たった4人しかいません。

ですが、その全員が大病をしてしまい、なかにはなくなってしまった者もいます。

 

最初に病に倒れたのは、私の夫です。

当時はまだ籍を入れていなかったのですが、ある日、病院から電話がありました。

「夫が倒れて、救急車で運ばれた」という連絡です。

 

そのときの私は、いわゆる「頭が真っ白」という状態でした。

「悲しい」とか「どうしよう」とか、そういう感情は湧いてくることはなく、本当になにも考えられないのです。

 

連絡が夜だったということと、少し離れていた場所だったので、翌日の朝一番で病院に行きました。

私が病院に到着した日、夫はなんと、9時間もかけて、手術を受けていたのです。

 

お医者さんによると、一番状態が悪いということで……。

「脳出血で、即死でもおかしくなかった」と言われました。

そこでようやくショックを感じて、心が真っ暗になったような気がしましたね。

 

「これからいったいどうしよう……」

不安ばかりが押し寄せてきて、悲しくてたまらなかったです。

「物を食べよう」という気にもなりませんし、なにも考えられなくなりました。

 

今でも、あのときの「目の前が、真っ暗になる気持ち」を思い出すことがあります。

怖くて、なにかにつかまりたいのですが、なにもなくて、そのまま奈落に落ちていくような感覚。

きっと、私は一生忘れないでしょう。

 

幸い、夫は一命をとりとめました。

しかし、重い後遺症が残り、精神・身体ともに、障害一級という状態に。

そんな夫を支えて、家で介護をしていましたが、うまくできず、本当に大変でした。

 

夫は体の麻痺があり、食事や入浴、そして排泄などもすべて、誰かがヘルプをしなくてはなりません。

さらに精神障害があり、ものの善悪が分からないことがありました。

 

落ちている食べ物を食べてしまったり、失禁をしてしまったり……。

そのたびに夫を叱り、そして慰めつつ、辛くて泣いてしまう日も多かったです。

 

「夫に助かってほしいという」という一存で、頑張ってきた私。

ですが、「『命をつなぐ』ということが、こんなに難しいものか」と思えて、呆然とした日々でした。

 

生きるのは大変だと感じたエピソード2.自分自身が、動脈瘤こぶで入院する羽目に

入院

 

夫のことが少し落ち着いてきたある日、突然、頭痛が私を襲いました。

もともと、健康には自信があり、頭痛なんて今までなったこともありません。

 

しかし、自分の夫が脳出血で倒れたので、万が一ということもあり、病院で診察を受けました。

MRIとCTと、二つ検査をして、病気が判明。

「動脈瘤こぶ」という病気でした。

 

血管に血液のこぶができてしまい、それが5mmをオーバーしていたのです。

「ここまで大きくなってしまうと、もう手術をしないわけにはいかない」と、言われてしまい……。

結局、大学病院に、そのまま送り込まれてしまいました。

 

自分の夫が障害者なので、「どうしよう……」と、おろおろしていた私。

「私が家にいないと、夫は一人で生活できない」

そればかりを考えてしまい、担当の医師に事情を説明して、「手術日の前日に、入院をしてよい」という許可をもらいました。

 

痛む頭を抱えて、なんとか家に戻り、夫の着替えや食べ物など諸々を用意。

私が入院中にも不自由がないように準備をします。もちろん、その間も、割れんばかりに頭が痛いです。

 

「本当に、頭が割れてしまうんではないか」と、思うくらいの痛みで……。

「こんなに体が痛んでも、寝ていることもできないなんて……」

そう思うと、ちょっと自分が哀れに思えて、ぽろぽろと泣いてしまいました。

 

そして、夫が病気なので、「誰も手術日に立ち会えない」と、医師に説明。

あのときの医師の驚いた顔は、今でもよく覚えています。

 

「本当に誰もいないの?」と言われて、心のなかで、こうつぶやきます。

「だって、両親には留守宅をお願いするから、きてもらえないのです」と。

 

手術の説明も、なにもかも、自分一人でこなした私。

病院のベッド代が高いので、看護師さんに「とにかく安い部屋へ」と、お願いしました。

 

病気になっても、家族のこと、そしてお金のことを心配しなくてはなりません。

「もうこのまま、目がさめなくてもいいや……」

そう何度も思ったものです。

 

手術前日、病院に入院するぎりぎりまで働いて、それから入院。

しかし、あまりにも無理をしたのか、なんと熱がでてしまいました。

 

その夜はわきの下に氷を挟んで、一生懸命熱を下げます。

そうしないと、手術日を変更しなくてはならず、またお金がかかってしまうのです。

 

手術は成功して、一週間で退院しました。

ですが、一週間で回復したのではなく、もうお金が払えないから、退院したのです。

 

「あとは、通院でなんとかしましょう」

最終的にそういうことになり、一人で荷物をまとめて、電車に乗って帰りました。

 

体が弱っていると、精神的にもナーバスになります。

病院を出て、駅に向かう道のりがとても辛く、足を一歩前に出すだけで、息切れをしてしまう状態。

 

心も体も限界ぎりぎりで、せっかく手術をしたのに、駅のホームに飛び込んでしまいたい気持ちになりました。

 

 

生きるのは大変だと感じたエピソード3.母が乳癌! 抗癌治療の壮絶な影響!

泣いている女性

 

自分が退院したその直後、なんと今度は、実家の母が乳癌だということが判明。

そのとき、情けないですが、私は自分の家で泣き崩れてしまいました。

 

「夫が障害者となり、自分自身が命にかかわるほどの病気をして、そして、なんとか助かったと思ったら、今度は母が!」

精神的にとてもキツイということだけでは、済まない状態になります。

病気が発覚後、母の面倒を見るために、実家に通う日々がはじまりました。

 

「障害者の夫を抱えて、そして自分自身も病みあがりで、いったいどうなってしまうんだろう」

そんな不安な気持ちでいっぱいでした。

 

あのころの私は、おしゃれもまったくしていませんでしたし、服を買うこともありません。

金銭的に余裕がないということもあります。

しかし、なによりも心が追い詰められていて、身ぎれいにする気持ちの余裕がなかったのです。

 

母の抗癌治療がスタートすると、母に付き添っての病院通いがはじまりました。

実家には父もいましたが、体調が悪いということで、付き添いができず、私が一人で担当。

もう本当に、精神的にも肉体的にも大変で、「お願い誰か助けて!」と、叫びだしたい気持ちでいっぱいでした。

 

母は抗癌治療を行うことになったので、治療をはじめてすぐに、体に変化が。

髪の毛が抜けはじめ、爪は真っ黒になったのです。

 

ほかにも吐き気や倦怠感、本人が一番苦しいと思います。

ですが、その母の外見の変わりようは、周りの人間も驚かせるものがあり、視覚的に随分と、大きなショックを受けました。

 

母が「こんなになってしまって」と泣くのを「そんなことないわよ」とか、「思った以上に悪くないわよ」と励ます私。

なんとか、気持ちを盛りあげようとします。

 

そして、病院の付き添いや食事の準備……。

私の心と体は、悲鳴をあげていました。

家族の前では笑っていましたが、それがつくり笑いということは、バレていたかもしれません。

 

「母を支えてあげたい」という気持ちと、「なんとか楽になりたい」という気持ちが、心のなかでぶつかり合う日々。

なので、本当はいけないのですが、夜になって家に帰っても、食事もしないで、お酒を飲んでいました。

 

夫には夕食を出しながら、自分は台所に立って、お酒を飲んでいます。

その際、「人間が人間らしく、ただ生きて寿命を迎える」ということが、とても難しく感じたのです。

「もういいよ」と、言いたくなりました。

 

「このまま眠って、永遠に目が覚めなかったらいいのに……」

何度も、そのように考えていましたね。

 

生きるのは大変だと感じたエピソード4.今度は父が胃癌! 力及ばずに亡くなってしまった……

泣いている女性

 

母の抗癌治療をスタートしたころ、なんと父にも病気があることが分かりました。

病名は「胃癌」で、もうほかの臓器に転移がある状態。

つまり末期癌だったのです。

 

父は、障害を持つ夫にも優しく接してくれる人で、私よりも、夫と親子だと、よく勘違いされていました。

その優しい父が、入院して、手術を受けることになったのです。

 

家族に心配をかけないように、父は一人で病院に行っていました。

ですが、このような状態だと、家族も同行して、説明を聞かなくてはなりません。

 

父も母も、同じ病院で診察を受けています。

なので、午前中は父の診察、午後からは母の抗癌治療と、一日のうちに何度も病院を往復するハメに。

 

その間に、障害者の夫の世話や、通院に付き添わなければなりません。

「自分は病みあがり」、なんて言っている場合ではなく、フル回転で家族のケアをしました。

 

しかし、一人でやれることには、どうしても限界があります。

私は仕事をしていましたが、もうどうにも手が回らず、休職することにしました。

というか、そうしないと、家族が病院に行けません。

 

兄弟は一人いて、少し離れたところに住んでいましたが、まったく手伝おうとはしませんでした。

「一人で歩けない父や母を、なんとか病院に送ってほしい」とお願いしても、「タクシーで行けば?」と言うのです。

 

「じゃあ誰がタクシーを呼ぶの!? 今、父や母はそれさえできないのに!」

そんな気持ちが沸き起こってきました。

ですが、目の前で苦しんでいる両親をそのままにできず、結局すべて、私一人でやることになります。

 

「なんとかしい」という気持ちで、焦るのですが、なにをどうしていいのか分かりません。

なので、一人になると、よく泣いていましたね。

 

そんなある日、父が入院する日がきました。

末期癌の場合は手術をしないのが一般的ですが、父の場合は出血をしているということで、手術をしたのです。

そして予後が悪く、みるみると弱っていきました。

 

私は毎日、朝一番で父を見舞い、一段落すると、今度は母の通院の付き添いに。

自分の父親ということもありますが、人が目の前でどんどんと具合が悪くなっていくのを見るのは、本当に苦しかったです。

 

「お願いだから、なんとか生き延びてほしい、助かってほしい!」

その思いで、胸がつぶれそうになりました。

 

よく「胸がつぶれる」と言いますが、本当に重しが乗っているような感じで。

物理的に、息苦しさまで感じていたのです。

 

そんなふうに頑張って、毎日父に付き添っていました。

ですが、桜がまだ咲いている春のある日、父は永遠の眠りについたのです。

 

そのとき、私は父へ「ありがとう」という気持ちと、「お父さんを助けてって、お願いしたじゃない!」と、責めるような気持ちを抱えていました。

「お父さんを助けてって言ったよね、お願いしたよね!」と、あのときほど、世界を恨んだ日はありません。

 

まとめ

大きな病を抱えると、身体だけでなく「心」が死なないように、健全に保つのは、とても大変です。

父が亡くなったあと、私はなにに対しても、やる気がありませんでした。

 

ただ、まだ母が癌の治療中だったので、本当に気力を振り絞って、通院に付き添い続けます。

そして、父の葬儀の準備をして、見送りました。

 

私はただ、家族と「普通」に、生活をしたかっただけです。

それなのに、病というのは、ときには生活の根底から崩してしまい、命を奪ってしまうものだと実感しました。

 

ただ生きるということが、これほど難しくて大変なことだとは、私は知りませんでしたね。