ゲイとHIVをカミングアウトし親に「ケダモノ」と呼ばれ、恋愛した壮絶なエピソード7編

悩む

私は青森で生まれ、社会人生活として東京で生活し、今は仙台に住んでいる30代男性のゲイです。「人生のなかで大切なものはなにか」それを、毎日模索しながら生きています。余裕がなくなると、大切なものは見えにくくなるから、できるだけ言葉にするようにしています。私は、この人生で、人を一番大切に考えています。

 

 

ゲイとHIVをカミングアウトし、恋愛した壮絶なエピソード1.両親のこと

 

私は、東北の小さな村で育ちました。

父は大工、母は看護師で裕福ではありませんが、大変愛情をそそがれ、恵まれて育ったほうだと思います。

 

体が弱かった私を、いつもやさしく介抱してくれる優しい父と母のこと、私は大好きでした。

しかし、転機は突然訪れました。

 

高1の夏、私は両親に養子であることを告げられたのです。

ショックのあまり、気が動転し、高校を卒業するまでは氷河期のような家族関係となり、会話もほとんどなくなりました。

 

大学に進学する気にもなれず、私は上京し寮制の専門学校に入学しました。

私が上京を強く希望した理由は、表向きは自立したいなどと言ってましたが、実は違います。

 

私は、少しでも新宿二丁目に近いところに住みたかったのです。

そうです、私はゲイなのです。

 

ゲイとHIVをカミングアウトし、恋愛した壮絶なエピソード2.カミングアウトのこと

悩む

 

学校も夏休みに入り、私は帰省ギリギリまでアルバイトにあけ暮れていました。

そのころには、男性経験もすんでおり、寮に帰らず友人宅に寝泊りする日が増えていました。

 

今まで、ずっと自分のなかに閉じ込めてきた世界があることに、感動していた時期だったんです。

そんなある日、軽いノリで友人にすすめられたのが性病検査です。

 

やはりこの世界、どうしても耳にするのが性病でした。

完全匿名で、検査できることを念押しで確認し検査に行きました。

 

結果までは、10日程かかるとのことだったので、実家から戻ったら結果を聞きに行くことになっていました。

今でも忘れない、あの日は8月30日。

 

直射日光が降りそそぎ、残暑の残る大変暑い日でした。

検査結果に、私は絶望しました。

 

そこからの記憶は曖昧で、どこをどうやって帰ったのかわかりません。

気がついたら、当時、東京に出稼ぎしていた父のアパートにいました。

 

夕方、電気も付けずに泣いている私を見て、父は動揺し私も動揺していました。

少し落ち着きを取り戻し、一呼吸置いてから私は父にカミングアウトをしました。

 

「お父さん、ごめんなさい。私はゲイです。そして、HIVです」と。

父は、絶句していました。

 

くわしい説明も、求められませんでした。

どのくらい時間がたったのでしょう、父が一言だけ発したのです。

 

「お前は、普通が一番幸せなんだよ」と。

「普通ってなに?女の子を好きになること?結婚すること?子どもをつくること?」父に尋ねましたが、父はうなずくだけでした。

 

私はもう一度、自分がゲイであること、男性が好きであることを説明しました。

すると、父が、小さな声で言ったんです。

 

「ケダモノ」と、私のなかでなにかが壊れました。

私は、この世界では生きていけないと思いました。

 

ゲイとHIVをカミングアウトし、恋愛した壮絶なエピソード3.生きることについて

愛情

 

携帯電話もなにも持たずに、財布だけを持ち、私は新宿2丁目に向かいました。

最後の場所は、ここにしようと決めてたのです。

 

街は、私の気持ちを知るよしもなく、いつもどおり、にぎわっていました。

最後に、どうしても男性と出会いたくなり、ゲイバーに行きゲイ同士がセ◯クスをする発展場という場所に行きました。

 

現実から逃げたかったんです。

そして、朝が来る前に路上で日本酒とナイフを持ち、気持ちを整えていました。

 

そのとき、たまたまとおりかかった男性に、ナイフを見られてしまったんです。

男性は状況をさっしたのか、私が話をするまでそこを動かないと言いました。

 

根負けしてしまい、自分の身に起きたことをすべて話しました。

気が付いたら泣いていました。

 

泣いて、泣いて、泣き枯らしたころにその人はこう言ったんです。

「それでも生きなさい。あなたが今いなくなったら、悲しむ人は間違いなくいる」と。

 

事情を理解した彼は、「気持ちが落ち着くまで、自分の家にいていい」と、言ってくれました。

私は、「ほんの少し、もう少しだけ、生きていたい」と、思いました。

 

 

ゲイとHIVをカミングアウトし、恋愛した壮絶なエピソード4.友だちのこと

友情

 

住みはじめて数日、まず携帯電話がないのは不便だと言われ、プリペイド式の携帯電話を購入してくれました。

そして真っ先に、ゲイで一番の親友である友だちに連絡をし、新宿3丁目のドトールで待ち合わせをしました。

 

友人は、すぐやってきました。

どうやら履歴を見て、親が連絡したようです。

 

友人は心配し、泣いていました。

ほかの友だちも仕事を3日休んで、私を探してくれていたと聞き、泣いてしまいました。

 

どこにも居場所がないと決め付けていたのですが、それは少し見えにくくなっていただけで、ちゃんとまだそこにありました。

 

ゲイとHIVをカミングアウトし、恋愛した壮絶なエピソード5.仕事のこと

 

生きていると、お金がかかります。

それほど、預貯金にも余裕はなかったので、私は仕事をすることにしました。

 

ただ、事情が事情なだけに、できる仕事にも制限がありました。

昼はオペレーターとして、夜は水商売、そしてあいた時間に体を売りました。

 

当時の睡眠時間は、2.3時間だったと思います。

暇な時間を、つくりたくなかったんです。

 

私は生きながら、死んでいると思っていました。

ただ息をしているだけ、それ以上でもそれ以下でもないと。

 

体調を崩したり、怪我をしたときは本当に困りました。

病院には行けないので、知人の医者や看護師に自宅で診察をしてもらい、薬をもらったり。

 

昼はお客様からのクレーム、夜はママやお客様からの罵声やいじめ、決して楽な生活ではありませんでした。

飢えをしのぐため、つゆだくの牛丼並1杯の食生活。

 

それでも空腹なときは、お店のお菓子やお水を飲んでいました。

 

ゲイとHIVをカミングアウトし、恋愛した壮絶なエピソード6.恋愛のこと

愛情

 

そんな日々が約半年ほど続いたころ、友人から紹介された男性(カズさん)と再会しました。

最初は戸惑いましたが、近況を報告しているうちに緊張がほぐれ、ときめいた気持ちがよみがえってきました。

 

カズさんの口からは、一度も「好き」という言葉は聞いたことはありません。

しかし、会うときは、いつもふたりきり。

 

昼と夜の仕事の合間や、ときには店にきてくれる日もありました。

私が行ったことのないような、お洒落なお店もたくさん紹介してくれて、生きがいを見つけたんです。

 

私の生きかたを変えてくれたのも、彼でした。

水商売のお店に遊びにきて、ぞんざいな扱いを受けていた私を案じ、ママに直談判して辞めさせてくれたのです。

 

衣類やカバンをまったく持っていなかった私に、お古を譲ってもくれました。

思い出の歌もあります。

 

新宿のGAP前で、彼を待っていると、ヘッドホンを付けてマウンテンバイクに乗った彼があらわれました。

「なにを聞いているの?」彼は、無言で私にヘッドホンを渡しました。

 

もともと、無口なんです。

流れていたのはEvery Little ThingのUNSPEAKBLE。

 

サビまで聞きおわり、「いい曲だよね」と、彼に伝えたら「俺たちの歌みたいだよな」と、言いました。

うれしかったです。

 

言葉だけの「好き」を言われるよりも、愛のないセ◯クスをされるよりも、感動しました。

その日の夜に、私たちは一夜を共にしました。

 

病気のことをカミングアウトしてから、はじめてです。

それからときは流れ、私はタイミングをはかりながら、彼に自分の想いを伝えました。

 

すると、彼はうなずく前に、1つだけ条件を提示してきたのです。

それは、「両親と和解すること」でした。

 

ゲイとHIVをカミングアウトし、恋愛した壮絶なエピソード7.再会のこと

ゲイ

 

両親との和解、それは極めて困難な条件でした。

行方をくらまして、1年以上たっていましたし。

 

風の噂で、母と妹が東京へきて、2丁目を探していることなどは、耳に入っていました。

しかし、もう私は裏の人間で、なにもないと自分に言い聞かせ動揺しそうになる心を落ち着かせていました。

 

カズさんは、時間をかけて私を説得しました。

そして、私は両親と和解することを決意したのです。

 

再会する当日、私は震えていました。

もちろん仕事は休み、カズさんも一緒にきてくれました。

 

夕方17時、私は重い足取りでアパートへ向かい、静かにアパートのドアを開けました。

「ただいま」と。

 

父は、背を向けたまま「おかえり」と、一言いいました。

しばらく無言が続き、たえられなくなった私は、冷蔵庫から人数分のビールを出し口を付けました。

 

泣かれる、怒鳴られる、殴られる、罵声をあびせられる、思いつく展開はすべて私の嫌なものばかりです。

「お父さん、ごめんなさい」先に私が口を開き、謝罪をしました。

 

伝えたいことはたくさんありましたが、その一言にすべてを込めました。

父はそれでも、やはり無言。

 

そして、「お母さんに電話しろ」と、言ったんです。

私は、震える手で実家に電話をすると、電話口からはすすり泣く母の声が聞こえてきました。

 

そして母はたった一言、「生きていて、良かった」と。

「もう、ここで最後にしよう」と決めたあの日から、様々な出会いがあり、生きながら死んでいると思い込んでいた自分。

 

でも、その言葉で目が覚めました。

うれしくも悲しくもないのに、涙が止まりませんでした。

 

電話をおえると、父は「腹減ったな、なんか食いに行くか?」と、よく行った店に連れて行ってくれたのです。

その日は、父のアパートに泊まりました。

 

眠るまでなにも言わなかった父、思えば昔からそうだったように思います。

夜、父の本棚からある物も見つけたのです。

 

それは、母から私に宛てた手紙でした。

宛先の不明の手紙を書くのは、どんなに心苦しかったでしょう。

 

 

まとめ

それから時間はかかりましたが、自分があの日、手放した大切なものを集めていきました。

家族、友人、生まれた場所、記憶、思い出。

 

すべてが、元に戻ったわけではありません。

戻らなかったものもあります。

 

そして、今は出会った人みんなにフルオープンで、カミングアウトする人生をすごしています。

大切なものを、失いたくないから。

 

今は、ちゃんと側にある大切なものを、二度と手放そうとは思っていません。

幸せなこの人生に、感謝しています。