私が父親を憎いと思ったエピソード9つ

憎い

50歳。女性。離婚歴、死別歴ありのバツ2。三人に息子のシングルマザー。職業は心理カウンセラー。幼少期からさまざまな苦難を経験。波乱万丈な人生で開きなおることと、本当の強さ、優しさとはなにか、幸せとはなにかについて考えるように。整体師をへて、カウンセラーになりました。自身が体験したできごとが現在、悩み苦しむ人のお役に立てればと思っています。

 

 

私が父親を憎いと思ったエピソード1.お膳をひっくり返す

テーブル

 

私の父は、外でも家でも無口で人づき合いの苦手な人でした。

仕事は真面目で、派手に遊んだり浮気したりするというようなことは一切しない人。

 

しかし、話すことが苦手な代わりに口から出る言葉は毒舌。

しかも、かんしゃく持ちで短気だったため、夕食時にいきなりお膳をひっくり返すということが頻繁にありました。

 

そのため、母からはいつも夕方になると「お父ちゃん帰ってくるから、大人しくしてなさいよ!」と、言っていました。

言われたとおりにしていても、母と父でささいなことからケンカになり、お膳をひっくり返す。

 

私は毎日、夕方になると不安でした。

食べている最中にも関わらずお膳をひっくり返され、お腹が空いたまま寝ることもありました。

 

物心ついてから、ずっと父が恐くてなにを考えているのか理解できなく、接しかたにも困るしまつ。

私は正義感が強かったため、幼いながらに父に対して怒りや憎しみともいえる感情を、抱いていたことを覚えています。

 

私が父親を憎いと思ったエピソード2.マンガがダメ

まんが

 

我が家は、父が好きなアニメ以外はテレビもマンガもダメという、おかしなルールがありました。

父が好きなアニメは、天才バガボンとオバケのQ太郎、サザエさんのみ。

 

小学校ではベルサイユのバラや、宇宙戦艦ヤマトなどが流行り、オンエアの翌日はアニメの話で盛り上がるのです。

私だけは見ていないため、話についていけなくて困りました。

 

また、朝の学級会では歌を歌うのですが、クラスのみんなで選ぶため、アニメの主題歌が多かったのです。

いつも私だけ歌を知りません。

 

歌詞は、大きな用紙に書いて黒板に貼ってありますが、メロディがわかりません。

一週間ごとに歌う曲が変わるため、なんとか歌えるようになると、翌週はまた振りだしに戻るの繰り返しでした。

 

口パクで誤魔化していましたが、辛かったですし、朝の学級会が嫌いになりました。

父には言えないので、母に「みんなが見ているアニメをみたい」と、お願いしたんです。

 

しかし、我が家は父が家計をにぎっていて、母に主導権はありませんでした。

父に聞いてみてくれたそうですが、「必要ない、ダメ」と、言われたそうです。

 

あまりに勝手で、子ども同士の友だち関係や、付き合いに理解がないことを腹立たしく、憎く思いました。

実際、私はアニメのことが理由で、5~6年のときは友だちもいなくなり、学校を休みがちになりました。

 

私が父親を憎いと思ったエピソード3.おもちゃも買ってもらえない

おもちゃ

 

父はアニメだけでなく、おもちゃもダメ出しが多い人でした。

みんなが持っているリカちゃんハウスなどは、買ってもらえませんでした。

 

とりあえず、人形だけは買ってくれたので、ハウスを手づくりし、母が手縫いした服で着せ替えをします。

ほかにも、駄菓子屋さんに行くときに、私だけおこずかいがもらえなかったりしたことも。

 

遠足のお菓子も新しい物は買ってもらえず、家にある封の開いたものを持たされたりしました。

また、習字道具や絵の具セットは、学校で購入したものを皆持っていました。

 

しかし、私は買ってもらえないため、単品で買ったものを袋に入れ、絵の具の筆洗いは空き缶を利用しました。

同級生から「ビンボー!」と、からかれたりもします。

 

母がお金を持っていないのは、わかっていたので文句は言いませんでした。

でも、貯蓄にばかり精を出して、必要な物をわかってくれない父が憎かったです。

 

私が父親を憎いと思ったエピソード4.服を買ってくれない

アパレル

 

私は小学校を卒業まで、ジャンパーやコートなど持っていなく、真冬でも薄手のカーディガンで登校していました。

すごく寒かったですが、母も下着すら買わない人でしたので、文句は言えませんでした。

 

卒業間近の三学期に、私が不登校を繰り返し、担任の先生から母に連絡がきたんです。

話の内容は聞きませんでしたが、なぜ学校が嫌なのか、なぜ友だちがいないのかを話してくれたのだと思います。

 

すると、急にコートを買ってくれました。

しかし、友だちは卒業まで、仲良しはできませんでした。

 

父への憎しみはやがて、だんだんと自分に向い、命を絶とうと考えたこともありました。

小学校時代でした。

 

 

私が父親を憎いと思ったエピソード5.暴力をふるう

殴る

 

話は戻りますが、小学校時代、私は父からライターの火を顔近くに持ってこられたことがありました。

理由は覚えていませんが、おびえて声も出なかったことは覚えています。

 

また、怒るとすぐに手をあげる人でしたので、私だけでなく母もよく引っ叩かれていました。

大人になってから知りましたが、父は子どものころ、同じような虐待を兄や父からされて育ったそうです。

 

それが原因で、反面教師にするのが本来だと思いますが、自分も同じようなことをするようになってしまったのです。

腕力のない女、子どもに対して暴力を振るう父が憎かったです。

 

私が父親を憎いと思ったエピソード6.母より仕事が大事

比べる

 

私が中学三年のときに、母がリストカットをしました。

その日は、たまたま部活が休みで、友だち数人とおしゃべりしていたのです。

 

でも、なぜか胸騒ぎがして落ち着かないので、途中で私だけ帰りました。

「ただいま!」と、言っても母からの返事はなく、部屋に入ってみると母が手首から血を流して倒れていました。

 

そばに、たちばさみが置かれていて、刃先に血がついていたんです。

私は慌てて、向いの家に飛び込んでおばさんに母の様子を伝えました。

 

家にも電話はありましたが、とにかくパニクッてしまい、震えが止まらず誰かそばにいてほしかったのです。

そして、電話を借りて救急車を呼びました。

 

そのあとで、父の会社に電話してすぐに帰ってきてほしいと伝えました。

しかし、父は帰ってきません。

 

いつもどおり、定時まで仕事をしてから帰宅しました。

私は、交代で母のそばについていることを提案したのですが、「お前がついてろ」と、言われました。

 

本当に冷たい人です。

 

私が父親を憎いと思ったエピソード7.病気なのに蹴飛ばす

蹴る

 

私は17歳のときに、リンパ腺性結核にかかり数ヶ月、自宅療養していました。

病気を知っていても、父から毎朝、蹴飛ばされました。

 

父いわく、根性がないから病気にかかるのだそうです。

悔しくて、布団のなかで声を殺して泣いたのを覚えています。

 

そして、私は憎い父ならはなれたいがために、二年後、家を出ました。

 

私が父親を憎いと思ったエピソード8.うつ病になり追い出された

うつ

 

私は、20代後半に次男を妊娠しているときにうつ病になりました。

姑からの反対で、なかなか籍を入れられなかったことや、ホルモンのバランスが崩れたことが原因だと思いますが。

 

産後、生理がくるまで辛い日々が続きました。

産後2ヶ月ほど実家にいたのですが、次男の世話と洗濯以外は寝ている私。

 

それを見ていた父のいら立ちがピークになり、私の荷物をすべてゴミ袋に入れて、「出て行け!」と言われました。

次男を出産してから、再婚相手がアルコール依存で入院したことも、父の怒りの一因でした。

 

父に対しての憎しみと、主人に対しての不信感と、今後の生活への不安感でいっぱいになりました。

 

私が父親を憎いと思ったエピソード9.間接的に母を死に追いやった

自殺

 

13年前の春、母が家出して行方不明になりました。

母は、その2年前に怪我をしたことから働けなくなり、うつ病になっていました。

 

そこに拍車をかけて、追い込んだのが父です。

「病院に入れ!」とせまり、暴言も言われていたそうです。

 

我が家に招きましたが、「お父ちゃんひとりにするわけにいかない」と、同居は拒否されました。

そんな母が心配でしたが、仕事と子どもの世話もあり、時々しか実家に様子を見に行けません。

 

そんな矢先。

父から連絡がきました。

 

しかも、母がいなくなって3日もたってから。

いなくなる前日に会いましたが、そんなそぶりはまったく、感じませんでした。

 

警察に捜索願いを出して3日後、川で遺体が発見されたと連絡がありました。

衣服の色や、年齢から母ではないかとのこと。

 

主人と父で確認に行きました。

やはり、母でした。

 

主人が電話をくれたのですが、多分そうだろうと思ってはいたものの、頭が真っ白に。

父の落胆ぶりも尋常ではなかったので、責めはしませんでした。

 

まとめ

それから半年後に、父も胃癌で亡くなりました。

父への憎しみが増幅したのは、それからでした。

 

なん年も憎しみと怒りで葛藤しました。