7つの仕事を経験して私がしんどいと感じた仕事3つ

泣いている女性

69才女性。某化粧品会社でフィリピンへ。某旅行社でリザベーションをする。その後児童英会話団体に所属。ほかにフリーで某外勤支部の機関紙編集、創作工房を主宰その後京都の某手描き友禅会社に入社、某情報出版会社に営業として所属など様々な仕事を歴任。アルバイト経験も多数あり。趣味はフォトコラージュ。現在はフリーライター。

 

 

私がしんどいと感じた仕事1.化粧品会社の派遣先のフィリピンでピストル事件などに遭遇した

パトカーの走行

 

東京の化粧品会社から、デモストレーターとしてフィリピン・マニラに派遣されたときのことです。

マニラを中心として、セブ島などに出張派遣されました。

そこでメーキャップの仕方などの普及をかねて、自社のリップとかサマーケーキなどの化粧品の販売につなげる販売促進が主体でした。

 

きつかったのは暑いなか、着物を着用して、しかも、立ちっぱなしの仕事だったということです。

売り場はデパートとか、ドラッグストア、スーパーなどの化粧品売り場のコーナーで、現地女性スタッフとチームになり、基礎化粧品の商品名や扱い方、メークアップの仕方などを紹介していました。

 

現地の人は日本の人の肌と違ってオイリーなので、日本人の肌を想定して化粧品を使用すると、メークそのものが浮いてきたりして、まったく定着してくれません。

日本でそんな体験を一度もしたことがなかったため、大いに慌てました。

 

まだ治安が悪かったころなので、マニラ在住のときには会社から送迎があり、あまり出歩けません。

食事もメイドさんつきのまかないつきの会社の寮があり、個室をもらっていましたので食生活に不自由はありませんでした。

が、現地メイドさんのつくる料理はなんでもニンニクを入れるので、私はフィリピン料理にはなじめなかったです。

 

フィリピンの調理の仕方は大雑把なので、流し台で鶏肉を放置し、パイナップルなどの果物も切ります。

それを同じ手で触ったのかパイナップルを食べた私は、擬似コレラのような、ひどい下痢に悩ませられることになりました。

それは、生まれて以来、体験したことのない下痢でした。

 

一種の食中毒だったのでしょう。

また、現地で一番しんどかったことは、マニラでピストル乱射事件に遭遇したことです。

酔っ払った男性が銃を乱射したのですが、私はたまたまマニラ近郊のドラッグストアに派遣されていたときのこと。

 

パーンという乾いた音が散発的に響き、誰かの号令でみんないっせいに床に伏せました。

このときは生きた心地がしませんでした。

 

地方に出張すると、食事は自分で調達しなければなりません。

現地の食事もやはり、ニンニクのきつい料理でしたので、私はホテルのレストランで西洋料理を食べるしかありません。

けれど、朝食も食べなければならず、あまり出歩けない私は、朝食はバナナのようなものを食べて済ませていたと思います。

 

フィリピン人は興奮しやすい気質のようで、お酒が入ったりすると口論になりやすいです。

それで興奮すると、ピストルまで取り出すという気質には、戸惑いました。

 

しかし、そんなことは始終起こっているとかで、当人たちはケロッとしていて、気にも留めている気配もありません。

居合わせた華僑の中国人が「悪酒」とメモして私に手渡してくれました。

 

また、セブ島に滞在していたときのことです。

そのホテルは一応、セブ島一番のホテルでした。

そこに宿泊していると、明け方に隣室でニワトリの声が鳴き響きます。

 

なにごとかと飛び起きると、それは「コケコッコー!」と朝の刻を知らせるニワトリの声だったのです。

お陰で眠れなくなってしまうし、そのあとは散々な日となってしまいました。

 

私はホテルのボーイさんに問い詰めると、それはニワトリを闘わせる闘鶏の業者が、自分のニワトリと一緒にホテルに宿泊しているとのことでした。

このホテルは当時セブ島では一番のホテルで、最上階に回転スカイラウンジがあるようなホテルでこれが起こっているのです。

 

まだ、びっくりすることがありました。

そのホテルの鏡台の引き出しを開けると、なんとネズミが飛び出したではありませんか。

私はネズミを追い掛け回しましたが、ネズミは部屋の隅に隠れてしまいました。

 

その件でホテルに苦情を言っても、なにが悪いのかと暖簾に腕押し状態。

謝罪すらしてくれません。

そこでキレた私はホテルをチェックアウトするとタンカを切り、迷惑をかけた分、すこし値下げをするよう談判をしました。

 

しかし、フロントはまったく動ぜず、割引もなく謝罪すらなし。

とうとう若かった私は「あなたのところだけがホテルではない」とホテルを飛び出しました。

太陽がギラギラ照りつける苛酷な炎天下、セブの町中をホテル捜しに走り回ったのです。

 

しかし、現在のレベル以上のホテルは見つからず、結局、すごすご戻ってくるしか術はありませんでした。

態度が大きいわけですね。

 

まさに、カルチャーショックなフィリピン滞在の経験でした。

とにかく、毎日が命がけのような日々だったことを思い出します。

そのピストル事件について話したところ、親に危険すぎると引き止められ、この会社は退社しました。

 

私がしんどいと感じた仕事2.旅行社のリザベーションで顧客のブッキングが取れていなかった

スケジュール管理

 

次に入ったのは旅行社の海外旅行の営業でした。

グアムやサイパン、ハワイなどの海外旅行に行く人のビザ取りや、ツアーコンダクターを補佐する仕事です。

 

しばらく経って、グアム島へ行く営業に変わりました。

旅券申請をしてビザを取って、ツアーまで送り出す仕事です。

しかし、女性だからという制約でツアコンには出してもらえず、タイプうちや顧客との打ち合わせ、旅行申請、ビザ取りなど、と裏方的な仕事以上のことはさせてらえませんでした。

 

タイプもできて英語もできるにもかかわらず、女性だから体力がないから、とツアーコンダクターとしての仕事はさせてもらえませんでした。

営業職だと顧客が東京まで出てこられない場合は、出張することもあります。

そういうとき、突然、上司から「茨城県の水戸県庁まで申請に行け」と命令されたこともあります。

 

その時間が早くて、朝一番に起きだし、早い列車で出かけていきました。

現在のように携帯電話があるわけでもなく、水戸県庁がどこにあるかも分かりません。

数分遅れてしまっても、県庁の旅券担当者から「お客さんを待たせてなにやっているんだ!」と怒鳴られる始末。

 

男の営業マンはたたかれたこともあると言っていました。

なにせ、不慣れな土地だし、上司も事前に言ってくれていれば、もう少しルートや列車の時刻表などの連結を調べておけたのに、と情けない気持ちで一杯でした。

 

ほかにも「私の家の近くにクライアントがいるからパスポートを届けて欲しい」とか、イレギュラーな仕事が突然前触れもなく不規則に入ってきます。

上司やほかの部署から降りてくる仕事なので、断るわけにはいきません。

 

また、突然空港への見送りなどにも、かり出されることもあり、毎日なんだか出たとこ勝負のようなあんばいで、落ち着かない職場でした。

また、団体旅行が突然入ってくることもあり、そういうケースでは大量の出国カードのタイプを打つ仕事をしなければなりません。

これも突然、全員が残業というになります。

 

女性は習いごとの予約をしている人もあり、要領よく帰ってしまう人も多いのですが、新入社員や私のように要領が悪い人間は断れず、夜遅くまでタイピングを手伝ったりもしました。

英文科出身だったので、入社時の希望はコレポンでしたが、半年程経ってリザベーションが欠員が出たとかで、突然リザベーションに配属になったのです。

 

私は細やかな事務は苦手でしたし、予約のブッキングでミスをしたらどうなるのと不安のあまり、担当セクションの上司に「私は予約の仕事は絶対に向いていません。ミスをする可能性があります」と泣き声になって訴えました。

しかし「大丈夫だよ!どうしても無理だったら配属を考えるし、コレポンもできるようにしてあげるから」とまったく相手にされません。

 

私は最初から事務仕事は自分に向いていない、と知っていますから、ひとつのミスも許されない、そんな担当は絶対に無理だと確信していました。

しかし、これだけ無理だと言っているのに、私にリザベーションをやらせるのは会社の責任だと腹をくくりました。

 

そして、案の定、何ヶ月かしてミスが起こってしまったのです。

ホテルのブッキングは航空会社を通じて予約され、予約OKならばOKと記されます。

 

ところが、私はそれに印を付け忘れたか、お客様がフランスでホテルで予約されていなかったと、カンカンに怒って電話してきたのです。

「訴える」とかまで言って怒っていたとかで、上司が慌てて謝罪しに行きました。

 

私は多分蒼白になっていたのでしょうが、自分がこういうことをしでかすことは予感していたので、案外冷静でした。

「だから、死ぬほど断ったではないか…それをごり押ししたのは会社だ。訴訟などが起こっても私のせいではない。絶対に責任を取るつもりなどない」と居直っていました。

 

訴訟にはならずなんとか済んだようですが、私への信頼はガタ落ち。

私は自分がリザベーションがいかに不向きかを訴え、そのあと、また営業職に戻りました。

私の欠員の後任には、営業畑から回されれた、新人の女性が回されました。

 

しかし、明るくて朗らかだったその若い女性は、日に日に重責に耐え難いのか、暗く落ち込んだ表情になり、とうとううつ病になってしまったのです。

リザベーションという仕事がいかに責任が重く、精神的に緊張する、しんどい仕事なのかということをよくあらわしています。

 

また、会社のある地下鉄駅は狭く、ラッシュ時には混んで身動きができません。

いつもこのまま押し倒され、事故に巻き込まれるのではないか、と恐怖を感じていました。

結婚を機に身の安全性のためにこの旅行社を辞め、転職しました。

 

 

私がしんどいと感じた仕事3.子ども英会話団体でテープを売るよう強要され電話で怒鳴りあった

携帯電話の使用

 

その組織は児童英会話の草分け的存在で、私もその特殊な録音装置とテープの質を評価して、その組織の英語講師になったのでした。

しかし、はじめて5年位経ったころから、疑問に感じることが多くなりました。

まず、会の会費の値上げがあり、それとともにテープを売るように、という指示が会社側から要求されるように。

 

ただ指示がある程度ならばまだ我慢もできますが、テープを渋って販売しないと、露骨に地区の担当者から電話が入ってくるのです。

それに対して、疑問を提示したりすると、怒鳴り声すらあげられるという強圧的態度に恐怖感すら覚えるほどでした。

私は自分が間違っていなかったので、「私はテープを販売するために子どもに英語を教えているのではない」と反抗しました。

 

さまざまに会合では抵抗する議案が取り入れられましたが、その団体に私たちの意見など反映されることはありませんでした。

私は地区の役員もしていたので、「その役員が模範を示さないでどうする?」とまで言われて、暗にいびられるのです。

父兄からも疑問の声も上がり、私は会社と父兄の間に入り、板ばさみのような状態になりました。

 

そのうちに、だんだん抵抗する人も減って、その団体に所属していることも苦しいような状況になってきました。

けれど、私はテープのセールスマンになるためにこの団体に所属しているわけではない、と思っていましたので、そのスタンスを守りたいと思っていました。

 

逆に言えば、はじまった当初、この児童英会話団体の情熱や創作活動の質を重要視していたために、それを汚す行動をしたくなかったのです。

必然的に、このことから解放されるには、この団体から籍をはずすことしかありませんでした。

 

まとめ

ピストル事件、食中毒、ネズミ騒動などショックなフィリピンでのできごと、予約ミスをして凍りついた瞬間、また業務悪化のためにテープ販売を強要してきた児童英会話団体などの体験等、どれも衝撃的な事柄でした。

思い返すだけで、そのときのしんどさが湧いてきますが、どれも私には必要な体験だったと思います。