私は障害者の父を恨んだ。感動エピソード6編

泣く女性

障害を持っていた父を持つ、50代前半の主婦。

生前は父との交流がほとんどなく、愛情を注いでくれない父に恨みを抱いていた。

しかし、去年父の死去により、父のエピソードなどを通して、驚きの真実を知ることになる。

 

父は、文字を書くことができないだけでなく、「他人に関心を持てない」などの障害を持っていたことが判明。

その後、父への誤解が解け、父への謝罪と感謝の気持ちを持てるように。

 

 

障害者の父を恨んだ私が感動したエピソード1.父の存在と死

車椅子

 

私の父は去年の10月に、85歳で亡くなりました。

その年の新年には、草むしりなどをしていた父。

ですが、三月にはデイケアに通いはじめ、はじめてショートステイを利用しました。

 

出かけたときは歩いて行ったのに、帰ってきたときは、車椅子で帰ってきたのです。

施設の方から、「なぜ父が車椅子に乗ってきたのか」などの説明もありませんでした。

物のように、父を「ポン」と置いて行ってしまったのです。

 

父が「体が痛い」と言うので病院に行くと、尾てい骨を骨折していることが判明。

そのあと、緊急手術をしましたが、わずか3か月で帰らぬ人になりました。

 

障害者の父を恨んだ私が感動したエピソード2.父を恨んでいた日々

お手上げの女性

 

そんな父を、私は長い間恨んでいました。

なぜなら、父は娘が三人もいるのに、ほとんど声をかけることがなく、母への対応にも愛情が見られなかったからです。

 

ほとんど一人で孤立していた父。

祖母がいたころは、仕事が終わりご飯を食べると、そそくさと祖母の部屋に行って、テレビを見ていました。

 

背後には、祖母が座っています。

私たちがいる部屋には、寝るときのみやってきました。

 

母もそんな父には不満を持っており、娘たちに関わってこなかった父に対して私は、反抗するかのように、こう言ったのです。

「今さら父親づらするな」と。

布団をかぶったまま父の顔を見ませんでしたが、その言葉を聞いた父は、どんな気持ちだったでしょう。

 

仕事は真面目にやった父ですが、障害を持っているため、対人関係が難しかったようです。

私は知りませんでしたが、職を転々としていました。

「厚生年金に入っては、国民年金に加入する」を反復していたことを、父が亡くなってから知りましたね。

 

自分のことしか興味のない、いわば赤ちゃんが大きくなったような父に対して、愛情を求めるのは無理があったのです。

感情をあまり外に出さない父が、私にはものすごく不満でした。

「家族ならもっと交流があってもいいはずなのに、どうしてそれを避けるのか」、当時は理解することができなかった私。

 

父は仕事帰りになると、よくパチンコをやっていました。

景品をたくさん持ってきて、私たちにおすそ分けしたりしていましたね。

 

自転車が好きで、亡くなる間際まで、母に内緒で自転車に乗っていた父。

よく歩いて1分のところにある自動販売機に行き、コーヒーを買って飲んでいたそうです。

 

最後の自転車に乗ったときに、自転車のまま転んで救急車に乗せられたことがあったため、自転車は禁止されていました。

 

障害者の父を恨んだ私が感動したエピソード3.私には会いにきてくれない

一人で考え込んでいる女性

 

そんな父が感情を見せたときがありました。

私が海外にお嫁に行くその日、父はいつもなら朝早く起きて、庭いじりをしたりするのに起きてきません。

 

そんな父は、布団のなかに入ったまま、私に「行くのか」と言いました。

私は「うん、行ってくるよ」とあっさりと返事をし、母にも「じゃあ、行くから」と、簡単な別れの言葉を残して旅立ったのですが……。

普段通りの父ではなかったことが、あとになってみると分かったのです。

 

「もし父が、もっと私に関心を持ってくれたら、海外にまで行かなかったかもしれない」

「もっと母が私を説得してくれて、家族も私を止めてくれたら、家族のもとを離れることなく暮らしていたかもしれない」

 

そんな勝手なことを思いながら、親の気持ちなど、知ろうともしなかった私。

当時は、「自分にとって、よい選択をした」と思っていたのです。

 

父は、私の住んでいる家にきてくれませんでした。

会社の慰安旅行で国内、海外によく行った人が、隣の国だというのに、私の暮らしぶりを見にはきてくれないのです。

それが私の恨みの一つでもありましたね。

 

ほかの日本人の両親は、幾度となく訪問しているというのに……。

私のところには、誰もきてはくれなかったのです。

 

結婚を祝福されなかった私は、正直、寂しくて仕方がありませんでしたね。

たとえ、それが「自分勝手な行動の結果」ということを頭で理解していても。

 

「父や母が、一度でもいいからきてくれたらいい」

その願いは、一度も叶うことなく終わりました。

 

母も高齢で、余命宣告をされている身です。

もう海外に行くなど不可能でしょう。

 

 

障害者の父を恨んだ私が感動したエピソード4.「○○(私)は薄情だ」

病院

 

まだ父が体が動くころ、ほかの病院に入院した父は、私に対してこう言いました。

「○○(私)は薄情だ」と。

父から見たら、私はたまにしか実家に帰ることのできない、薄情者だったようです。

 

帰国するにも、たくさんのお金がかかった帰省は、何年に一回が精一杯でした。

また、父の理解を得られないまま、親戚にも一言も言わないまま、結婚した私。

 

そんな状況で、子どもまで設けた私のことを、父自身は嫌に思ったでしょうね。

それが「本心ではない」と、あとになって分かりましたが、父は父で私の出かたを待っていたのです。

 

私が夫のDVから逃げて、帰国したときのこと。

父に「一緒に精神科の病院に行ってほしい」と頼みました。

すると、父は普段着ない背広を着て、一緒にタクシーに乗り、精神科へ付いてきてくれたのです。

 

おそらく、私は父の情が欲しかったのでしょう。

関心を持ってほしかったのです。

それは、父も同じでした。

 

障害者の父を恨んだ私が感動したエピソード5.最後の父

入院

 

骨折して手術を受けた日、子どもたちと帰国しました。

意識が戻ったとき、私の顔を見て、名前を呼んでくれた父。

最後の面会の日、一時間ほど病室に滞在しました。

 

父に「家にきてほしかった」と、涙ながらに伝えます。

すると、父は「そんな遠くに行けねえよ」と言いました。

 

父は力を振りしぼって起きようとしましたが、すでに骨と皮だけの足では起きあがることができない状態。

子どもたちの顔を見て「起こしてくれ」と頼みましたが、叶えてあげることは無理でした。

 

次の日、帰国の途に就くことになっていましたが、最期になるであろうことを予感していた私。

そしてそれは現実のものとなり、訃報を聞いてかけつけた私は、父の遺体を前に嗚咽して、謝罪したのです。

 

しかし、本来なら、生きているときに謝らなければならないことでした。

冷たくなった父に、ただただ「ごめんね」としか言えませんでしたね。

 

障害者の父を恨んだ私が感動したエピソード6.父の障害を知る

落ち込む女性

 

父が亡くなってから父のエピソードを聞き、父が障害者だということがわかりました。

うすうす感じていたことでしたが、いろいろなことが分かったのです。

 

文字が書けなくて、小学校も卒業扱いになっていなかったこと。

入院中の母のところに洗剤を持ってきて、「洗濯してくれ」と頼んだことなど……。

いろんな話を聞くにつれ、父は障害者であったことがはっきり分かったのです。

 

そんな父に、いろんなことを求めても無理なことでした。

「もしもっと早くわかっていたら、父を恨むことなく、理解してあげたい気持ちになっていただろう」

 

そう思うと、今まで長い間父に対して、わだかまりを持っていたことが申し訳なかったです。

「親不孝者だった」と、父を思い出しては涙が止まらなくなりました。

 

しかし、ときはもう戻せません。

「もっと父と会いたかった」「もっといろんな話を聞いてあげればよかった」

後悔の念ばかりが押し寄せます。

 

父はこんな娘を持って、幸せだったのでしょうか。

私は、父のもとに生まれたことが嫌で仕方ありませんでした。

 

「関心もないなら、生んでくれなくてよかった」

「母と結婚しなければよかったのに」

 

そんなふうに、心のなかで父を常に責めていた私は、泣き崩れるしかありませんでした。

父は父なりに、私のことを愛してくれていたのです。

 

電話をかけることのできない父が、一度だけ「○○(私)の電話番号をメモしてくれ」と言ったことがありました。

「どうせかけないのに」と、冷たく言う母。

 

そんな母に対し、私は「もしかしたら、父が電話をかけてくるのかもしれない」と思っていたのです。

しかし、父からかかってくることは一度もありませんでした。

 

父は電話を受けることはできても、かけることができなかったのです。

私の電話番号を、どんな気持ちで持っていたのでしょうか。

その気持ちを考えると、「父は私のことを嫌いではなかった」と思います。

 

まとめ

父の死を通してその姿を知った私は、母に対しても同じような心のしこりがありましたが、すべてが氷解しました。

おたがいにもっと歩み寄れたら、こんなにも遠回りをする必要はなかったのです。

 

父も母も、ただ寂しかっただけ。

残された母に対して、後悔のないように、もっと関心を持っていこうと思います。

 

親孝行をするにはもう時間がないかもしれませんが、今からでも遅くありません。

父は私に、いろんなことを教えてくれて、家族との和解をもたらしてくれたのです。