37歳、田舎在住の独身女性。
低学歴の低スペック、おまけに住んでいる環境からも、刺激的なものや観光要素もゼロで、出会いもなければ、遊ぶ場もありません。
近隣世間からも憐れみの視線を向けられています。
しかし、自分なりに楽しみを見つけ、こっそりと静かに、楽しい人生を満喫中。
見出し
独身37歳の私が生きる糧としていること1.飼い猫の世話を生きがいにしている
12歳の猫を室内で飼っています。
周囲が次々と結婚していくなか、私は一人。
結婚の予定も、相変わらず、昔からありません。
「まだ結婚もしないのか?」「早くしないと、子どもが……」
そんな定型文的世間話を延々言われつつ、私にはなにもない日々を送っていました。
そういった日々を送っているなか、12年前のある日、野良猫が私につきまとうように、目の前に出現。
周囲の結婚ラッシュと、結婚しないことへの揶揄の渦中に、猫がこつ然と登場したのです。
「これはきっと、『猫と運命を共同にしなさい』という意味かもしれない」
そう思って、猫を飼いはじめました。
その猫と一緒に、12年過ごしてきて、感じていることがあります。
「猫は猫だから、猫として生きていて、「ニャー!」と鳴き、砂を掘ってトイレの用を足している」
「しかし、中身は人間と、そんなに変わらない」ということです。
私の可愛がり方は、まるで酔っぱらいの男性が、飲み屋で若い女性に、セクハラしているかのようなもので……。
そんな接触をエンドレスで猫に続けるので、最近では、猫に面倒くさそうにされていることもあります。
でも、猫のそのつれない表情や態度も、寂しい独身アラフォー女の猫飼いとしては、クセになってしまうんですよね。
夜は、私が寝ている布団に潜ってきて、猫自ら、一緒に寝ようとします。
布団に入れてあげると、枕に私と頭を並べて寝ているので、まるで自分の子どものよう。
子どもがいない私にとっては、猫のこういうところも、「子どものようだ」と、錯覚がおきる要因になっているのかもしれないです。
子どもがいる人から見ると、「猫は猫で、人間の子どもとは違う」と、強い違和感を覚えると思います。
私自身も、「猫は猫である」ということは、分かっているのです。
それでも、自分の身体の都合からも、出会いの数や自分のスペックの問題。
また、年齢の現実も含めて、異性からの需要度合いを、すべて総合した観点からいくと、この考えに行きつきます。
それは、「私が、今世で子どもを持つことは、難しい近い状況にある」ということです。
そんな私にとって、猫は家族同然のような存在。
あるとき、悩みがあって、一晩中泣いていたことがあります。
そのとき猫は、私の腕をずっと舐めて、なぐさめ続けてくれたのです。
泣き止むまで、慰め続けてくれた猫。
泣き止んだあと、私は猫にこう言いました。
「ずっと慰めてくれていたの知ってる! なにがあっても、あんたのことは、ずっと世話するから!」と。
そのあと、「ブチュゥ~」と、思い切り一発、ヒゲが並んでいる部分へ、気持ち悪いキスを猫にぶちかましました。
猫は、「うわ、気持ち悪!」という表情をします。
しかし、まんざらでもない笑みも浮かべていたのを、私は見逃しませんでしたね。
私が帰宅する時間になれば、いつも玄関まで必ず迎えにきてくれて、全身で喜びを表現してくれます。
よだれを流して、不細工な顔で寝ているときは、その様子をキャットタワーから、小馬鹿にした表情で、見守ってくれる猫。
趣味はワイドショーで、テレビを興味深そうに、見ています。
なので、「猫ってのは、本当に猫ぶっているだけなんだな」と、感じている日々です。
私が素知らぬ顔をして過ごしていると、猫は普通にペラペラと喋っています。
私の名前も普通に、はっきりとした発音で喋って呼ぶのです。
「嫌だ」「おはよう」「ごはん」……などなど。
簡単な単語は、なんでも普通に日常的に言っています。
だから、中身は人と、それほど変わらないように感じて、仕方ないです。
こんなに、飼い主に愛情を返してくれる猫を子どものように可愛がり、世話をしていることが、生きる糧になっている私。
私は、ライフパートナーを獲得することはできませんでした。
ですが、ライフパートニャーの獲得に成功し、現在のところ、生きる糧のトップにきているのです。
独身37歳の私が生きる糧としていること2.本を読み、造詣を深め、マンガや映画の娯楽も心底楽しむ
今後も、結婚の予定が一切ない私。
そんな私にとって、「結婚」は非常に難易度が高く、すでに結婚そのものが、現実的な話ではありません。
ですから、なにかがあったときには、できる限り自分の知恵を頼りに、物事を判断する必要があります。
つまり、自分一人で生きていかなければなりません。
一人で生きていかなければならないので、このようなスキルは本当に大切です。
実は、結婚願望が強かった若かりしころに、占い師にすがりつき、鑑定をしてもらったことがあります。
その際、他人に判断を求めてばかりいることが発覚。
でも、あるとき気が付きました。
「結婚の年齢は○○歳だ」と言い切られたのに、まったく結婚の気配すらなく、年数が経過。
そのため、「自分で知恵をつけて、判断していかなければならない」という、基本的なことに、20代後半で気がついたのです。
「占いも、十分素敵なものではあるけれど、自分の人生を他人にいつも考えてもらって、それで外れたらどうするのか?」
そのことに、他人が結婚しはじめている年齢で、気がつきました。
だから、結婚できなかったとも、言えるかもしれません。
このできごとから私は、こんなふうに自問自答を繰り返します。
「自分で考えるクセをつけず、お金を使って他人に人生の舵取りをしてもらう? 今後も、外れたら人のせい?」
「自分の人生がうまくいかなかったときの保険として、言い訳用に占いに行っているの?」などと。
その結果、日々、読書をするように、心がけるようになりました。
なぜなら、こう思ったからです。
「本を読み、幅広い分野において見識をつければ、トラブルだって事前に回避できて、生きやすくなるはず」と。
最初は、こんなスタンスからはじめた読書。
ですが、小説を読めば、話しのトーンには抑揚があるものも多いので、飽きずに物語に没頭できます。
登場人物を実生活にあてはめて、見直すことができる場合もあるので、いい意味で、お人好しにならずに済むこともあるのです。
結局、現実逃避以上の効果を、小説を読むことから、得ることができている私。
私にとっての読書は、思った以上の道楽になっていて、まさに生きる糧と言えます。
小説以外でも、分野を問わず、読みます。
そうすることで、問題が起きたときは、過去に読んだ本を心のなかで回想し、対応することができるように。
「そういえば、あの本には、こんなふうに書いていた」
「その業界の人が言っていたことだし、当事者しか知らないネタが多かったから、あの手で解決しよう」と、いう感じです。
私は、自分の分かりやすい表面上のスペックと、独身アラフォーという面から、馬鹿にされることも数多くあります。
ですが、本を読んできたことで知恵がついたので、その後、相手の態度が豹変することも、多々経験してきました。
だから、読書は生きる糧で、マンガや映画も、読書と同じ。
マンガや映画は、娯楽のカテゴリーのようでいて、実は勉強になることが多いです。
マンガと映画は、「ゆっくり噛み砕いて、深読みする」という、見方をするだけでも違います。
新しい発見があって、日常に応用することもできるからです。
「結婚はできなくても、余計なトラブルを回避し、またトラブルも寄せ付けない」
そういう意味で、マンガや映画は役に立っています。
婚歴なし、37歳独身女の私にとって、人生の嫌な部分を忘れつつ、知恵を付けられるのは読書だけ。
その観点からも、2つ同時に楽しめるので、映画を見たり、マンガや本を読んだりすることは、生きる糧になっているのです。
独身37歳の私が生きる糧としていること3.食べることが、生き甲斐になっている
「幸せを感じられない人は、食のセーブがきかない」ということを証明しているのが、私です。
異性面での幸福感がゼロなので、食べることから、幸せを感じています。
20代のころは、私の親戚や過去に勤めてきた、職場の関係者の結婚が、怒涛のようにありました。
しかし、私には、その波どころか、気配すら寄ってきません。
親戚や知人の結婚式の写真を頻繁に見せられては、お祝いの金額ばかりかかり、私には、なんのメリットもなし。
祝いごとを損得と考えることは、浅ましいことです。
ですが、私には無縁のことが続き、お金だけかかることが、繰り返された結果……。
「食事で憂さ晴らし」という、解決方法に至りました。
最初はストレス解消で食に走っていましたが、現在は生きる糧、そのものになっています。
結婚はできなくても、食事だけは、たまらなく美味しいからです。
20代のころは、こう思って、食を抑え、スタイルキープに励んできました。
「それでも、棚ぼた的な出会いがいつかあるかもしれない、だから食事をセーブしよう」と。
でも、特段人と接触するような、趣味があるわけでもない私には、出会いもありません。
なので、その分の我慢も、暴発しているのかもしれませんね。
「幸せ自慢を延々何度も見せられ、聞かせられ、こちらはお金ばかりかかる」
そんなできごとを長年も経験していれば、食事だけが唯一の救いになることも、不思議ではありません。
恋愛最中の人や、幸せを手に入れている人は、精神面も安定しています。
だから、「必要以上に食べることがない」という話しがありますよね。
人にもよるでしょうが、それは、おそらく本当です。
私の場合は、幸せがないので、食の抑制スイッチがなく、毎度満腹になるまで、食べてしまいます。
油たっぷりの揚げたてポテトを頬張ったり、ハンバーガーに食らいついたりするときが、至福のひとときです。
焼肉、大蒜がたっぷりきいた具材豊富なパスタ、チャーハンやら、エビチリ大盛りの中華など、なんでも平らげています。
とくに、和食は二杯三杯と、食べることがある私。
なぜなら、口のなかに食材の味が広がって、胃袋に落ちていく瞬間までに、たまらない幸せを感じているからです。
普通の人が、子どもやパートナーから感じ取る充実感や幸福感が、私の場合はすべて「食」に移行しています。
幸せはすべて、食事から感じ取っているので、すでに肥満傾向に。
ですが、それほど体型のことも気にしていません。
なぜなら、職場には、同じような年齢の独身の異性はいないから。
そもそも、田舎住まいのアラフォー独身女の私が、外に出会いを求めたところで、出会いの母数自体も、すでにないからです。
だから、外ですれ違いざまに、体型を笑われようが、問題ありません。
食べることの楽しみのほうが、勝っているからです。
普通の人が、ある程度はセーブしている食事においてもそう。
どんな高カロリーフードだろうが、食べたいだけ、食べられます。
それはそれで、幸せに感じているし、生きる糧となっているのです。
あのとろける甘いカルビを食べながら、キリッと冷えた、苦味のきいているビールを喉から、食道胃袋に流し込む……。
そのために、「今日も、仕事を頑張る!」と思えるのです。
独身37歳の私が生きる糧としていること4.お酒を楽しみにして、日々生きている
子なしで婚歴もない私は、そのことを無意識で、相当にストレスを感じているように思います。
理由は、お酒を飲むことで、一気に緊張感から解放されるからです。
お酒を飲むと、急激に肩のこりが解放されて、身体全身が楽になります。
お酒を飲んだときは、日々、結婚していないことや、子どもがいないことを言われても、忘れられるのです。
私は、田舎に住んでいます。
なので、「未婚で、子どもがいないことを口に出して、教え諭すことは正義」みたいな方々を、大変多く見受ける機会があるのです。
マイノリティとなった私を嘲笑う人々。
私は、それを大人の対応で、相手を立てながら、ひょうひょうと受け流し、過ごしています。
そのストレスは、知らないところで、相当な負荷となり、心と身体にかかっているようです。
なぜなら、お酒を飲めば、心が軽くなるから。
「その歳で独身だと、酒は一人で飲むんですか? それ寂しすぎませんか?」
若い世代の方で、このように言ってくる方もおられます。
ですが、若いときから、お酒を飲み続けている私から言えること。
それは、「そのときの年や、自分の社会的状況に応じた飲み方がある」ということです。
若いときは、異性同性の枠を超えて、友人同士で飲んでみたり、合コンで飲んだり……など。
その場にい合わせた、仕事関係者や偶然の出会いから、勢いで飲みに行ったりすることもあるものです。
ですが、歳を重ね、結婚の可能性が閉ざされれば、話は違います。
静かに一人でお酒を飲むことが、疲労回復につながり、明日への糧となっていくのです。
社会的状況によって、精神状態も変わるので、お酒の飲み方と楽しみ方も、大きく変わります。
世間の風当たりがなかったとしても、一人でお酒を飲むことが、生きる糧となっている気がしてならない私。
なぜなら、マイペースで飲む楽しさと醍醐味を、若いときの飲み方を経験したうえで、知っているからです。
まとめ
世間では可哀想に思われている境遇で、一部自虐の記載もありました。
ですが、当の本人である私は、マイペースで自分ができる幸せを噛み締めながら、淡々と生きているのが現状です。
人の人生は多種多様で、型におさめて一斉進行というは困難なので、暖かい目でみてくださると、嬉しいですね。