私はずっと貧乏家族。永遠の貧乏の私のエピソード6つ

佇む女性

私の家はすごく貧乏でした。

生活保護も受けていて、車もなかったです。

学校で、生活保護の子だけ呼ばれて、給食費を返してもらうとき、すごく嫌でした。

 

大型ゴミの日になると、一家でまだ使えるゴミをあさりに行くのは当たり前。

「お前、いつも同じ服きてるな」とか言われる始末。

 

それが嫌で、20歳になってからホステス業界に入り、めちゃくちゃ働きました。

ですが、給料の半分は母に取られていましたね。

 

貧乏がコンプレックスだった私は、一時のバブルを味わい、その後結婚。

貧乏な生活を送っていますが、オープンに生きています。

 

 

貧乏生活をずっとしている私のエピソード1.うちの家は貧乏一家

ゴミ

 

うちの家は貧乏でした。引っ越しも2回しています。

私は当時小さかったので、どうして引っ越したのか、理由知りませんでした。

でも、怖い人が家の前をウロウロしていたりしたことを今でも覚えています。

 

今思えば、取り立てでしょうね。

家具も少なかったし、洋服も母の手づくりでした。

 

昔は大型ゴミって、日が決まっていて、無料で持っていってくれていましたよね。

大型ゴミの日の夜になると、家族揃って、近所の大型ゴミを見て回ります。

 

そこで、いいのがあると、家族で持って帰り、使えるものは使ったりしたものです。

小学校の中学年くらいから、大型ゴミをあさるのが恥ずかしくて、嫌になり、私だけ行かなくなりました。

 

学校に行ってたある日、数名とともに、先生に呼び出された私。

給食日の返金でした。

 

家に帰って、母に「どうして私だけ給食費が帰ってくるの?」と聞いたのです。

すると、母が「うちは貧乏だから、生活保護に入ってるの」と言いました。

 

そのとき、生活保護の意味が分からなかったので、私はなんとも思わなかったのです。

 

貧乏生活をずっとしている私のエピソード2.周りからの目

嫌な気持ちになる少女

 

私には妹がいます。

3歳離れているので、洋服も、妹はお下がりです。

 

洋服を買ってくれるのは、お正月前の年末ぐらいに、お正月用として買ってくれるときだけ。

女の子ですし、可愛いのをたくさん欲しいけど、うちは貧乏なので、お金がないの知っています。

なので、可愛い洋服着てる子を羨ましくもあり、妬ましくもありました。

 

周りの男の子から「お前、いっつも一緒の服だな。貧乏人ー!」と言われることもしばしば。

私は悔しい思いをしながらも、母にねだることもしませんでした。

 

夜ご飯は、おかず1品とご飯だけ。

近所のおばちゃんに、「〇〇ちゃんとこ大変だね」とお菓子をもらったこともあります。

 

私は「可哀想」とか「大変」とか、言われるのがすごく嫌でした。

なので、もらったお菓子はいつも妹にあげていましたね。

 

周りの目が、すごく嫌でした。

 

貧乏生活をずっとしている私のエピソード3.中学生に入って

お弁当

 

中学年にあがるとき、着ていた制服も近所のおばちゃんの娘さんからのお下がり。

嫌でしたが、学校生活の楽しみのほうが、勝っていました。

 

でも、中学年に入ると給食ではなく、お弁当になります。

それが嫌でした。

 

お弁当のおかずは、ミートボールだけ。

魚1匹に、ご飯だけのときもありました。

それが恥ずかしくて、1人で隠して食べていた私。

 

あまりにも嫌だったので、自分でつくるように。

下手くそな卵焼き、ウインナー、あとは冷凍食品を詰めて、学校に登校。

 

冷凍食品はさすがに、母にお願いして、買ってもらっていました。

でもこれで、皆と一緒に食べれますからね。

 

休みの日はラーメンつくって、ワカメ乗せてみたり、コーン入れたり。

見た目をリッチに見せるようにつくっていました。

 

中学校生活で、貧乏でもありがたいと思ったことは、制服の存在です。

毎日制服じゃないといけないから、洋服と違って誤魔化せます。

だから、放課後、電車に乗って街に行く事も、制服で行っていました。

 

何日も同じカッターシャツを着るのは嫌だし、体操服も何日も洗わないのが嫌だった私。

母に「もったいない」と言われつつも、自分で洗濯していました。

 

 

貧乏生活をずっとしている私のエピソード4.アルバイト

焼肉

 

高校は私立に進学することになりました。

母にブツブツ言われながらも、お婆ちゃんにお金を少し援助してもらい、通うことができたのです。

 

高校生活より、私はお金が欲しかったので、すぐにアルバイトをスタート。

でも、ケンカ早くて短気な性格だったので、いつも上の人とケンカになり、辞めていました。

 

焼肉屋さんが一番長く続いたような気がします。

男ばかりだったし、私もチャラついていたので、そういうのを含めて面倒をみてくれていました。

毎日休みなく働いていましたね。

 

結局、学校は中退。

そこからはアルバイトの毎日で、働くのが楽しかったですね。

 

なんといっても賄いが食べれるので、家のしょぼいご飯食べなくても済むのが、幸せでした。

給料日になると、ウキウキで持って帰って、「なに買おうか」とか悩んでいた私。

 

すると、突然母が部屋に入ってきて、給料の半分を取りあげたのです。

もちろん、大げんかに発展。

でも、私学に無理に入ったし、中退にもなったので、諦めて渡していました。

 

貧乏生活をずっとしている私のエピソード5.憧れの水商

水商売

 

18歳で子どもを産んで、すぐシングルマザーになったので、20歳になるまで、焼肉屋のアルバイトを続けていました。

20歳になったときに、ホステスをやりはじめたのです。

 

憧れの水商売、かなり時給もいいですし、「貧乏から解放される!」と思うと、必死で休みなく働きました。

子育てしながらも、若さがあるので、やりこなせていたと思います。

 

親や妹の力は借りていましたが。ちゃんと100,000円は家に入れていました。

母は「水商売なんて、体を売る仕事だ」と言って反対してましたが、毎月100,000円入れてたら、文句も言わないように。

 

8年続けましたが、私が27歳のときに母が他界しました。

それを機に、生活保護もやめたみたいです。

 

私は実家の近くに部屋を借りて、焼肉屋さんもきつくなってきて、辞めました。

ホステス1本で頑張ることにしたのです。

 

好きな服もたくさん買ったり、ブランド品も揃えたし、旅行も行きました。

「食べたいものを食べたいときに、食べれるなんて最高!」と思っていましたが、オーナーからチーママの話がきたんです。

 

でも、「この先店を持ちたい」とか「ママになりたい」とか、そういう願望もなかった私。

それに、子どももいたので、30歳で足を洗いました。

 

貧乏生活をずっとしている私のエピソード6.バブリーの反動

イライラする女性

 

ホステスの仕事を辞めてから、貯金なんてわずかしかなくて、また、貧乏生活の逆戻りです。

「欲しいと思ったら、買いたくなる癖」を直すのに、相当時間がかかりました。

 

子どもも巣立ち、再婚もしたのですが、私のバブリーな使い方がひどすぎて、旦那の貯金も0に。

かなり反省しました。

 

まとめ

今は、旦那さんが休みなく、働いてくれています。

私はお洒落も、マツエクもネイルもすべて断ち切り、貧乏生活。

しかし、別にバブリーな生活に戻りたいとは思いません。

 

愛する旦那さんがいて、友だちもいて、今はそれだけで十分です。

「貧乏ですが、なにか?」と思いますね。

 

「またいつか這いあがってやる!」

でも、「普通と呼ばれる生活ができるだけでいいかな」とも思います。