29歳、小売店販売員。
実家は、小さなお弁当屋を営んでいるため、小さなころから、商売にはよく触れていた。
中学のころに父が病死し、借金によって生活が傾く経験をしているため、お金に関しては、シビアな面を持ち合わせている。
しかし、父の血をひいて、散在癖を持つ自分に、不安も感じています。
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人生で最悪な状況を乗り越えたエピソード1.自営業を営む父が病死
私の実家は、小さなお弁当屋さんを経営していました。
従業員はおらず、母と父が力を合わせて、経営していたお弁当屋さんです。
なので、「大繁盛」というわけではありません。
ですが、父と母、私と弟が食べていくには、十分な収入を得ることができていました。
しかし、私が中学1年のときに、家の状況が一変するできごとが起こったのです。
もともと糖尿病患っており、定期的に病院に行っていた父。
ある日突然、糖尿病がひどく悪くなり、入院することになってしまいました。
おそらく、日ごろの不摂生が原因でしょう。
まだ幼い弟と、中学に入ったばかりの私を抱えて、病院に行ったり、お弁当屋さんの営業したりする母。
そのうえ、家族の世話をしたりと、大忙しの日々を送っていました。
私も、「なるべく母の負担を減らそう」と、家事をやるなど、できる限り力を尽くします。
しかし、子どもがやることですから、限界がありますよね。
私は、徐々に疲れていく母を見て、とてもやるせない気持ちになっていました。
そんな状況も、「父が帰ってくれば回復する」と、思っていたのです。
しかし、父は結局、そのまま合併症を引き起こし、帰らぬ人となりました。
人生で最悪な状況を乗り越えたエピソード2.家族が知らなかった、多額の借金が発覚
父の死の悲しみに浸る暇もなく、私たちは衝撃的な事実を目の当たりにします。
なんと父は、母にも誰にも言わずに、多数の消費者金融からお金を借りていて、多重債務者になっていたのです。
お店の経営状況は悪くなかったのに、どうしてお金借りていたのか、幼いころの私には分かりませんでした。
しかし、大人になるにつれて、父の放蕩癖を知り、なぜあんなにも借金が膨らんでしまったかを理解したのです。
私たちがその事実を知ったとき、借金は利子を含めて、8,000,000円以上にも膨れあがっていました。
父の財産はすでに母が相続してしまっていたので、結果的に、その8,000,000円の借金は、放棄することができず……。
私たちは一気に、借金漬けの生活に陥るハメになってしまったのです。
けれど、正直、私はまだ子どもだったし、お店は相変わらず繁盛していたので、こう思っていました。
「そんなに大事にはならない」
「借金なんてすぐに返して、すぐに3人で楽しく過ごしていけるだろう」と。
けれど、お弁当屋を満足にやっていけていたのは、父と母の力があったからこそです。
母1人になって、生活が徐々に傾いていきました。
人生で最悪な状況を乗り越えたエピソード3.電気やガスも止まるほど、切迫した状況に
母は、私たちを育てるためと、借金返済のために、一生懸命に働きます。
お弁当屋を続けながら、バイトをはじめ、朝も夜も働いていたのです。
近しい、育ち盛りの弟と受験を控えている学生の私には、なにかとお金がかかります。
そのため、生活は今までと、まったく違ったものになっていきました。
おかずの数は目に見えて減り、母と穏やかに団らんをする時間も、ほとんどないような状態に。
弟は「寂しい」と泣き言を言って母を困らせ、家のなかは暗い雰囲気が立ち込めるようになっていきました。
そして、1度だけ、ガスと電気が両方止まってしまったときがあったのです。
かろうじて水道は使えていましたが、帰ってきたときに、電気がつかないあの衝撃は、今でも忘れられません。
母は、私たちに何度も謝りながら、ガスと電気の払い込みをしに行きました。
その姿は、あまりに小さく、「母がこのまま消えてしまうのではないか」と、心配になったほどです。
人生で最悪な状況を乗り越えたエピソード4.常連客の協力や手助けで、生活が安定し、救われた
そんな、苦しすぎる状況を過ごしていた私たちを助けてくれた方たちがいます。
それは、今までお弁当買いにきてくれた、常連客や近所の商店街の仲間たちです。
最初、母は周りの人間に、借金のことはまったく言わず、1人で努力していたのですが、ついに限界がきたのでしょう。
周囲の人に、相談するようになったのです。
すると、商店街のほかの店の知り合いや、近所のおばさんたちが、食べ物などの差し入れを持ってきたり。
学校から帰ってきた弟の世話をしてくれるようになりました。
私が学校に行っている間、家のなかの家事をしてくれる人まで。
私も、家事にとられていた時間を勉強に充てることができるようになりました。
また、常連客の皆さんは、今まで以上にお弁当を買いにくる頻度を多くしてくれて……。
「とにかくお金を稼いで、3人で元気に生活してください」
そんな温かい言葉をかけてくれたのです。
母は、そんな周囲の温かい励ましに応えるかのように、どんどん元気に。
その後、父の死から数年経ち私も高校生になったので、バイトをはじめ、家に生活費を入れるようになりました。
そのころには弟も成長し、家の状況理解したのか、積極的に家事を手伝うようになっていましたね。
そのかいあってか、借金はどんどん減っていき、私が成人するころには、ついに完済に至ったのです。
私のバイト代、お弁当の売りあげ、父の遺族年金。
この3つを合わせれば、3人で十分暮らしていける程度の収入を得ることができるようになりました。
弟が18歳になって、遺族年金などがなくなります。
しかし、弟もバイトをはじめ生活費を入れてくれるようになったので、生活が以前のように傾くことはなかったです。
こうして、私たちは家族の団結と、周囲の人々の協力によって、最悪な状況から脱出。
以前のような、人並みの生活を取り戻すことができるようになったのでした。
まとめ
人は、人生に何度かは、「もうダメだ」と思ってしまう瞬間に直面します。
しかし、そんなときにすべてを諦めて投げ出すことをせず、一生懸命がんばっていれば、きっといつか、救われる日がくるのです。
私も、今まで受けた恩を忘れずに、「この先、困っている人見つけたら、助けたい」と思っています。