「8万円あげるから出てって」母の虐待と暴言の日々と別れエピソード6編

娘を無視する母親

母が他界して、16年ほどになります。

母が私を扱いにくく、「何度も出で行け」と、幼少期から言われていました。

 

母は精神病。

私と母が大ゲンカしても、父はどう考えても母が悪いのに私をしかります。

そんな母が憎くもあり、反面、愛されたい願望も強く持っていた私。

私も精神病もあり、主治医に「離れて暮らしたほうがいい」と言われ、離れて暮らしてからは、大ゲンカすることも減りました。

 

ある日、いつものように喧嘩したその夜、母は他界。

喧嘩別れしたことを悔やみ、毎日泣いていました。

 

今でも許さないことも多かったですが、たまに母親らしいことをしてくれたことを思い出し、それなりに愛してくれたんだと思っています。

 

 

虐待と暴言の日々から脱したエピソード1.幼少期の心の傷

泣いている女の子

 

人間って、嫌なことをされたときのほうが脳や心に残ります。

私と母は犬猿の仲でした。

妹がいるんですが、要領がよく、甘え上手なので、母から大切にされていましたね。

 

私が小学生の低学年のころ、「80,000円あげるから、この家から出て行って」と言われました。

そのころからしたら高額ですが、生きていけるわけがないじゃないですか。

 

母が電話で、祖母に「あの子は本当にやりにくい子。いらん子だ」と話してるのを聞いてしまった私。

そのあと、私は自分の部屋に戻って、布団にくるまり、大泣きしていました。

 

虐待と暴言の日々から脱したエピソード2.母への憎しみ

手を挙げる母親

 

それから私は母を憎むように。

些細なことで大ゲンカになって、今からしたら笑える話ですが、熱いコーヒーや、カレーのかけあいとかしてました。

 

母の財布からお金を抜いたりすることも。

すぐにばれて、体中ロープでぐるぐる巻きにされ、押入れに閉じ込められたり、一晩中寒い冬でも、外の犬小屋で寝させられることもありました。

 

今なら完全に虐待ですね。

母の口癖は「あんたはいらん子だから、でて行け」。

それに腹が立ち、大ゲンカしても、父が帰ってきたら、どんなに母が悪くても私をしかりました。

 

父は「お母さんが病気だったから、お前を怒るしかなかった」と言っています。

今なら理解できるのですが、当時は、なぜ私がしかられるのか、まったく理解できなかったのです。

 

私はどうして、この家に生まれてきたのかも悔やみました。

 

虐待と暴言の日々から脱したエピソード3.妊娠

妊娠

 

17歳のころ、私は妊娠。

おろすことを考えていましたが、そのとき母は「廃人になってしまうから、産みなさい」と言い出しました。

病院にも付き添ってくれたのです。

 

そのとき、嫌いな母なのに、なぜか安心していました。

妊娠中、旦那の酒乱で、私の精神的な病気が悪化し、家にきて、連れて帰ってくれた父と母。

 

そこから毎日のように気晴らしに、母と2人で出かけるように。

母の調子が悪そうなときは、私はほとんど母と会話せず、引きこもっていた私。

安定してるときは、子ども服買ってくれたり、ランチしたりと、私を安心させてくれました。

 

子どもが産まれそうになり、病院がなかなか受け入れてくれないときのこと。

母が電話で「産まれそうになってるんだから、引き受けてください!」と強めに言ってくれたおかげで、病院は引き受けを承諾。

その結果、無事に産まれてきてくれました。

 

 

虐待と暴言の日々から脱したエピソード4.母離れ

新しい生活

 

実家で育てていましたが、また母の暴言が、はじまりました。

「いらん子が、いらん子産んで」とか「産ませるんじゃなかった」など、暴言を言いはじめたのです。

 

それから、また、大ゲンカがはじまり、「子どものことは関係ない」と言い争いの日々。

2階で大泣きしてる私を子どもがティッシュを持ってきてくれて、「お母さん泣かないで。お母さんをいじめるやつは僕がやっつけてやる」とよしよししてくれました。

 

私は通っている病院に行き、主治医にこう言われたのです。

「お母さんとは、離れて暮らしたほうがいいと思います。おたがいのためにも」と。

 

それで私は、働いてたのもあるので、実家の近くに部屋を借りて、子どもと2人で暮らしはじめました。

 

虐待と暴言の日々から脱したエピソード5.母との突然の別れ

仏壇

 

仕事で送り迎えができないときは、母や妹がしてくれていました。

離れて暮らしてから喧嘩することも減り、私も仕事や育児に忙しくしていたのもあって、必要なときしか電話をしたり、会いに行ったりすることはありません。

 

ある日、母から電話がかかってきて、「しんどいから迎えに行って欲しい」と言われましたが、仕事で抜け出せず、「無理だよ。お願い」と言いました。

すると母が「母親のくせに」と言ってきたので、腹が立った私はこう言って電話を切ってしまったのです。

 

「お前も私にどんだけひどいこと言うてきたと思ってるの? それぐらいしろよ!」と。

でも、その日が母との最後の会話となったのです。

 

その夜、母は突然死。心不全でした。

 

私は自分を責めました。

「あのとき、私が迎えに行ってたら、母は死ななかったかもしれない」と。

 

虐待と暴言の日々から脱したエピソード6.母への想い

思いふける女性

 

もう母が他界して16年ほど経ちますが、今思えば、私は母にめいいっぱい愛されたかったんだと思います。

わざと悪いことしたりして、気をひくようなことしたり。

暴言吐かれて悲しいのは、その分、「母が大好きだったから」だと思うのです。

 

子は親を選べません。

当時は、この家に生まれてきたことを憎みました。

でも今振り返れば母に、母なりの愛してくれてたことを感じることもあります。

 

まとめ

私の家には母の写真が、飾ってあります。

私と妹で、あげた洋服と帽子を着てる写真です。

 

毎年、命日には父とお墓まいりに行きます。

母に辛い言葉とか言われたりして悲しいことも多かったですが、私のたった1人の母親です。