35歳男性。栃木県出身。
栃木県での中学校の教諭を経て、現在は東京都内のIT企業で働いています。
うつ病を発症したことなどが原因で、教諭を退職し、東京へ移住。
その後、アルバイト生活などを経て、現在のIT企業に就職しました。
失業から再就職へのプロセスは、困難を伴うものが多く、当時は、とても辛かったです。
しかし、「世のなかとはどのようなものか」、あるいは、「自分の社会での立ち位置とは、どのようなものか」を認識することができた私。
だから、「得るものが大きかった」と考えています。
趣味は、ロードサイクリングと読書と株式投資。
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人生で回り道をした私のエピソード1.教員を退職して、東京へ移住してから、視野が広がった
私は大学在学中に教員免許を取得したあとは、自分の出身校でもある地元の公立中学校に、教諭として赴任しました。
それから約10年間、私はこの中学校で教諭として勤務。
ですが、あまりの多忙さに、心身のバランスを失ってしまったのです。
問題行動を起こす生徒への対応、些細なことでクレームを言ってくる、一部の保護者への対応なども原因だと思います。
結果的に、うつ病を発症してしまい、退職せざるをえない状況に。
「自分はなんのために、大学まで行って、教員免許を取得したのだろうか」
退職した当初はそう考えたり、「今までの約30年間の自分の人生は、なんだったのだろうか」と、喪失感に悩まされました。
「死にたい」と思ったこともあります。
しかし、通院していた神経内科のクリニックの主治医のアドバイスで、私の視野は大きく広がりました。
「生活環境を変えることによって、病気を治すことができるかもしれない」
主治医からこう言われ、栃木県の人口5万人の田舎町から、東京へ引っ越したのです。
栃木県の人口5万人程度の田舎町で生活していたころは、いわば半径5kmの視野で行動していた私。
絶えず、周囲の視線を気にして、周囲のコンセンサスを気にしながら生きていました。
物事の処理の発想は、第一に前例踏襲主義。
それに、年功序列が絶対ですから、老人の意見が常に採用されていました。
町内会で、30歳の私が意見を言っても、「青二才が意見を言うには、30年は早いんだべ」などと、言われる始末。
そのため、まったく話を通すことができなかったのです。
いわば、村落共同体のなかで生活していました。
東京に移り住んで、村落共同体の相互監視的な雰囲気や、コンセンサス重視の雰囲気から逃れることができた私。
私の気持ちは、晴れやかになったのです。
東京に移り住んで、人間関係で無駄を省けるようになりました。
それに、無駄のない合理的な発想で、生活することが可能に。
この点では、教諭を辞めたことは、決して無駄ではなかったです。
人生で回り道をした私のエピソード2.東京のビジネスマンは、率直な意見を言ってくれるので参考になった
東京へ移り住んでも、数ヶ月間はうつ病のため、自宅での療養生活が続きました。
そして、神経内科のクリニックの主治医から、こう言われます。
「そろそろ社会復帰の練習のために、アルバイトでもはじめてみましょうか」と。
まずは、さまざまなアルバイトへ応募することになりました。
都心部に立地している映画館へも応募をし、書類選考を通過して、採用面接に出向いたことがあります。
ところが、面接官は私の顔を見るなり、はっきりとこう言ったのです。
「この映画館は、あなたのような人間が働ける場所ではありませんよ。この映画館は、富裕層のセレブがいらっしゃる映画館なのです」
「ここで働くアルバイトたちは、そのセレブたちの会話のお相手も、できなくてはいけないのです」
「あなたには、無理だと思いますよ」と。
私が席について、いきなりこのように厳しい言葉を言われましたので、私は面を食らいましたね。
そこで、私はこう反論しました。
「そのようなことおっしゃるなら、なぜ私を採用面接に呼ばれたのですか? 書類選考で落としてくださいよ」と。
すると、担当者はこう断言。
「経歴を拝見すると、あなたは教員をやっていらしたので、『知能的には問題ない』と判断しました」
「ですから今日の面接にきていただいたのです。しかし、お会いして『ダメだ』と判断したのです」
「私は職業柄、一目相手を見ただけで、判断できるのですよ」と。
私は長年田舎町で育ってきて、ここまでストレートな言い方をされたことはありませんでした。
なので、屈辱を感じるというよりは、ある種の新鮮さを感じてしまったのです。
その際、せっかくなので、アドバイスをもらおうと、「いまの自分は、なにが問題ですか?」と、尋ねてみた私。
すると、担当者は「姿勢が悪いですし、目つきが暗いです。暗い男性は、セレブな女性から嫌われるのですよ」と言います。
私はそれ以来、鏡を頻繁に見るようになりました。
「目つきが暗いのは致命的だ」、自分でもそう悟ったのです。
的確な指摘を受けましたので、私は最後にお礼を言って、面接会場を去ったのでした。
人生で回り道をした私のエピソード3.正社員の就職活動のときは、面接先でアドバイスをもらうことができた
数ヶ月間のアルバイト生活や、その後の障害者雇用枠での勤務します。
そして、いよいよ、フルタイムの正社員勤務にチャレンジできる段階まで、体調が復帰。
そして、私は「趣味の株式投資を生かした職業に就きたい」という発想で、投資コンサルタントにも応募したのです。
運よく書類選考を通過し、採用面接試験に進むことができたのですが……。
ここでも、厳しいストレートな言葉を言われてしまいました。
採用面接では自分の経歴や、応募した動機などを説明します。
ですが、50代くらいの年齢の面接官は、当初から私の話には関心がないようでしたね。
そして、面接官は、私にこう言ってきました。
「あなたの話からは、ポテンシャリティーを感じます」
「しかし、残念ながら、当社に応募してくる人材の多くが、A証券で法人営業をしていた経歴の持ち主であったり、B銀行で融資を担当していた人なのですよ」と。
さらに、こう尋ねられたのです。
「あなたは当社に、どうやって利益をもたらしてくれますか?」と。
私は内心、「そんなことを聞くなら、書類選考で落とせばいいじゃないか」と思い、不愉快な気持ちに。
なので、返事をしないで、黙ってしまいました。
すると、面接官も言い過ぎたと思ったのか、私にこのようなアドバイスをします。
「あなたは必ずほかの会社で採用されます。しかし、当社では無理です。即戦力ではないからです」
「あなたは学校の先生をしていた方ですから、あなたのポテンシャリティーを買ってくれる会社が、あなたを採用すると思います」と。
この言葉を聞いたおかげで、私は自分のやる気だけを前面に出して、就職活動を行ったのでした。
やっと、社会での自分の立ち位置に、気がついたのです。
そして、現在勤務している、IT企業の経理職に一般職として、入社することができました。
現在は、経理業務をひととおり経験できて、業務に習熟しています。
私生活でも子どもができましたので、やっと平穏な生活を取り戻すことができたのです。
まとめ
日本では、「一度レールから外れると、再びレールに復帰することが難しい」と言われています。
私の場合は、再就職を果たすまで、数年を要しました。
しかし、遠回りをしたおかげで、社会での自分の立ち位置を知ることができましたね。
それに、「『人間は平等ではない』、その事実を実感することができたことは良かった」と思っています。