35歳男性。
栃木県内の中学校教諭を経て、現在は東京都内のIT企業に勤務。
中学校教諭時代に、中国人女性とお見合い結婚をしたが、新婚半年にして、家庭内別居の状況に陥る。
しかし、栃木県の田舎町で生きていくことを考えると、離婚はありえず、町内会の付き合いなどでは、普通の夫婦として振る舞った。
うつ病の発症を契機に、夫婦関係が修復に向かい、現在は東京で、円満な夫婦生活をおくることができている。
趣味は、ロードサイクリングと読書と株式投資。
見出し
仮面夫婦から修復したエピソード1.中国人妻に嫌気がさして仮面夫婦となった
私は栃木県の田舎町で、公立中学校の教諭をしているときのこと。
当時、なかなか結婚相手にめぐりあうことができなかったため、中国へのお見合いツアに参加しました。
中国で現在の妻を見て結婚を申し込み、数ヶ月後に栃木県内のホテルで、結婚式を挙げたのです。
ですから、夫婦とはいっても、結婚生活をはじめた時点では、おたがいがどのような人間なのか、まったく知らない状態。
そして、「おたがいを知らない状態で、結婚したことは間違いであった」と、すぐに気づかされました。
日々の生活習慣が違いすぎますし、価値観も違いすぎます。
私が妻の手料理に不満を募らせて、味付けなどについて、毎日のように注文をつけたのですが、妻は私のことを神経質だとののしるようになり、「日本なんかこなければよかった」と、言い出すように。
また、私は妻と一緒に外出していて、妻がスーパーの駐車場で、人前にも関わらず、つばを吐く行為にも嫌気がさしました。
妻には恥じらいの感情というものが欠けており、人前で唾を吐いたり、人前で大声で怒鳴ることは、日常茶飯事。
一方、妻は中国からいきなり栃木県の田舎に移り住み、しかも周囲の人間からは、奇異の目で見られていました。
そのため、ホームシックにかかってしまいますし、ストレスも溜まります。
このような、おたがいにとって、日々の不満が積み重なり、結婚してから半年後には、家庭内別居の状態となってしまいました。
寝室を別々にしましたし、妻は私のために夕食や朝食をつくらないように。
朝は私が出勤するまで、妻は自分の部屋で眠るようになりました。
そして、私は勤務先の中学校を出ると、レストランへよったり、ラーメン店に立ちよって、夕食を済ませ、それから帰宅。
それでも、私は「妻と離婚しよう」とは思いませんでした。
栃木県の人口5万人程度の田舎町で、中学校の教諭が離婚をしようものなら、あっという間に町中の噂に。
中学校の生徒の保護者にも、すぐに離婚の事実が知れ渡ってしまいます。
田舎の人々はきわめて、保守的な思考を持っているのです。
ですから、離婚をしてしまえば妻は、中国へ帰国することができて、気楽になれるかもしれません。
しかし、私は「中学校教諭という立場さえ、危うくなってしまう」と考え、じっと辛抱することに。
妻も、離婚までは考えていないようでした。
ですから、家庭内別居がはじまり、会話をしなくなっても、地元の町内会の夏祭りのイベントや、檀家となっているお寺の集まりには夫婦で参加。
何事もないかのように、そつなく振る舞いました。
このため近所の住民には、私たちが家庭内別居という深刻な状態にあることには、気がつかなかったと思います。
ですので、「仮面夫婦をやりとおすことができた」と、思っていますね。
仮面夫婦から修復したエピソード2. うつ病を発症したことをきっかけに夫婦関係が修復に向かった
私たち夫婦の関係が、修復に向かいはじめたきっかけは、私がうつ病を発症したときこと。
私が中学校からいつもどおり帰宅してくると、珍しく、妻が「表情が暗いね」と声をかけてきました。
そのときは私は返事をせず、妻を無視して、自室に引きこもってしまったのです。
ところが朝、目覚まし時計が鳴っても、私は起きることができなくなり、中学校に遅刻をするようになっていきました。
そして、ときには自室から携帯電話で、「今日は休ませてください」と連絡して休むように。
すると妻が私の部屋に入ってきて、「体調悪そうね。無理しないでね」と、やさしい言葉をかけてくれました。
その日から、妻は私のために、食事をつくってくれるようになったのです。
おかゆをつくってくれました。
味はおいしくありませんでしたが、それでも少し救われたような気持ちがしましたね。
「セーフティネットが自分にもある」と思えたのです。
しかし、うつ病の症状は悪化していき、教諭を退職せざるをえない状態に。
そして神経内科のクリニックに通院しはじめ、処方された薬を服用するようになりました。
退職してから、1年近く経過するまではなにも気力が起きず、生ける死人のような状態だったような気がします。
大便さえ、自室で垂れ流したことがありました。
しかし、妻は文句も言わずに、処理をしてくれたのです。
タオルで、私のお尻を拭いてくれました。
妻が「頑張らなくていいよ。貯金あるからね」と言ってくれたのが、印象に残っています。
仮面夫婦から修復したエピソード3.子どもが生まれ、東京でサラリーマン生活をはじめて夫婦関係は正常化した
次第に病気の症状が落ち着いてきて、私は障害者雇用枠で、民間企業にアルバイト採用されるまでに至りました。
そしてアルバイトで働いてみて、「もう大丈夫だ」と思えるようになり、主治医からも了承を得て、フルタイム勤務で働くことを決意。
そして、現在は東京のIT企業で、経理マンとして働いています。
私が落ちるところまで落ちた状態から、一般のサラリーマンとして働けるようになり、妻も安心してくれているようです。
そして、現在は栃木県の田舎町を離れて、東京のマンションで生活をしていますので、妻は「息苦しさから解放された」と言っています。
田舎での生活は、周囲には排他的な人間しかおらず、中国人の自分は疎外感をいつも感じていたそうです。
そして、東京の人間はさすがに都会人だけあって、「中国人の自分がいても、誰も差別をしてこないから、気が楽だ」と言っています。
そのためか、料理も結婚当初よりは上手になってきましたし、あまり下品な振る舞いもしなくなりました。
おかげさまで、夫婦関係も復活して、子どもが誕生。
やっと、普通の生活を手に入れた気持ちでいます。
まとめ
私の場合、国際結婚をした動機が、いい加減だったのかもしれません。
その代償で、新婚半年にして家庭内別居という状況に陥ってしまいました。
今実感させられていることは、普通の生活を手に入れることは簡単なようで、実はもっとも難しいことなのだということです。