私は実は養子だった。知るまで、知ってからのエピソード4編

親子

50歳。女性。心理カウンセラーをしています。養子だと知ったことからはじまり、ウツにもなった私ですが、その経験があったからからこそ、人の傷みがわかるようになれたと感じています。育ての親がいなかったら、私はきっと捨てられて、今この世に存在していないか、もしくは誰かに見つけられ養護施設で育っていたと思います。親を亡くしたお子さんや、養護施設で育つお子さんのボランティア活動をさせてもらい、命への感謝、生かされていることへの感謝を忘れずに生きていきたいと思います。

 

 

実は養子だと知るまで、知ってからのエピソード1.養子だと知る前まで

笑顔

 

私はひとりっ子として育ち、両親や近所のおばさんたちからもかわいがられ、とても無邪気であかるい子どもでした。

兄弟はいませんから、甘え放題。

 

両親ともに子煩悩な人でしたから、ごく当たり前なしつけ以外は、愛情深くのびのびと育ちました。

幼稚園では、男の子をしたがえて遊ぶような、勝気でヤンチャな女の子。

 

ただ一つ気になっていたのは、ほかの子の両親よりも、うちの両親が年齢がかなり上であることでした。

それが理由で、友だちとケンカしたりもしましたが、私自身は両親が大好きでした。

 

休日には、よく家族で動物園や遊園地に遊びに行ったり。

夏休みには、父はよく海やプールに連れて行ってくれました。

 

母は私のために、お弁当や手編みの椅子カバー、手縫いのお道具袋などを一生懸命つくってくれる人でした。

それなのに、ほかの子のものと比べて「お弁当がかわいくない」とか「手づくり品はやだ!」と、わがままを言うことも。

 

近所には、仲良しの友だちもいたので、姉妹がいないことを気にしたことは、一度もありませんでした。

 

 

実は養子だと知るまで、知ってからのエピソード2.養子だと知ったきっかけ

ショック

 

小学校2年の夏休みのこと。

私は、母の化粧品でイタズラを思いつき、鏡台の引き出し開けてみました。

 

一番上の引き出しには、母がいつも使っているファンデーションや口紅などが入っています。

そのときなぜか、二段目の引き出しに目がいったんです。

 

なかには、高島屋の包み紙で包まれた母子手帳が入っていました。

包みの上から母の名前が、書かれていたんですが、なんだか不思議な感じがしたんです。

 

包み紙を破れないように、そっとはがしてみました。

すると、母親の名前の欄には、知らない人の名前が。

 

一瞬にして、それがなにを意味するかさとりました。

ショックで心臓がバクバクします。

 

それと共に重苦しく悲しい気持ちになり、涙がポロポロと流れました。

洗濯物を干しおえた母が、鏡台の前に座っている私を見つけて「なにしてるの!」と、怒鳴ったのです。

 

私は、とっさに母子手帳を手に「コレなに?!」と、怒鳴り返しました。

母に見つかっていなければ、見なかったことにしようと、していたのに。

 

怒鳴りつけらて、反射的に母子手帳を見せて怒鳴ってしまったんです。

母は驚いた顔をしながら、慌てた様子で、母子手帳を取り上げました。

 

話をそらす母に腹を立てて 「ここに書いてある名前の人が、私を産んだ人なんでしょ?」と、怒鳴り声で母に問いかけました。

しかし、返答は「私にはなんのことかわならない」の繰り返し。

 

聞いていて、嘘とすぐにわかる理由ばかり。

「養子ではない」の一点張りでした。

 

私は、養子であると知ったショックと、嘘をつかれたショックで裸足のまま家を飛び出しました。

 

実は養子だと知るまで、知ってからのエピソード3.養子だと知ったそのあと

学生

 

家を飛び出した私は、さほど遠くはない、いつも遊んでいる公園で座ってぼんやりしていました。

ショックが大きすぎて、涙も出なくなってしまい、なにも考えられなかったんです。

 

とにかく、ぼーっとしていました。

友だちでもいたら、無理にでもつくり笑顔で、平静をよそおって遊ばなければなりません。

 

誰もいなくてよかった。

頭のなかには、母子手帳の母親の名前が浮かんできました。

 

それから30分程たち、母が迎えにやって来ました。

私は、もう母を問いただそうとする元気もなく、うなだれたまま、母に連れられて家へ。

 

それ以降、一年ほど私は両親とほとんど口をきかなくなりました。

養子であったこと以上に、嘘をつかれたことが一番ショックだったんです。

 

私が、母子手帳を見たことや、本当の母親のことについて知ってしまったことは、みんなが知ることになりました。

父だけではなく、叔父や叔母、祖父母にまで話は伝わりお説教されたり。

 

両親だけでなく、大人が大嫌いになりました。

そして、小学校5~6年のころには無気力になったり、死にたいと思うようになりました。

 

以前は良かった成績もクラスがえにともない、成績も下がりました。

そのせいで、両親や叔父叔母から厳しい目で見られることが、多くなったんです。

 

それが、プレッシャーとストレスになっていました。

養子だと知ってからの私は、常に心のなかが暗い状態でしたので、友だちもできなくなりました。

 

実は養子だと知るまで、知ってからのエピソード4.養子だと知ったそのあと2

ふきれる

 

中学に入学してからは、両親へのわだかまりも、とけはじめました。

三年の秋に、母が自ら命を絶とうとしたことがありました。

 

叔父叔母は、「私のせいだ」と。

うちは貧乏だったのでしたし、養子での引け目もあり、私は専門学校に入り昼間はバイトをして学費を稼ぐつもりでした。

 

ただ、両親にも担任にも「高校はいかない」としか伝えていなかったんです。

私の真意など、誰も知るよしもありませんでした。

 

この一件で、私はさらに人間不信になりました。

その後、私は決めたとおりに専門学校へ。

 

バイトをして学費を払いうことにしたのです。

しかし、バイト中も授業中も眠くて仕方なく、なんとか起きて動いているような状態でした。

 

友だちやバイト先の仲間、オーナーさんの前では明るい子を演じていました。

でも、実際は一日中気は晴れず、常に寂しく、ゆううつ感がつきまとっていたんです。

 

なぜか、毎日生きていることがきつかった。

養子だと知った経緯が、起因していたのだと思います。

 

今だらわかりますが、あのころの私は、長年にわたってうつだったのでしょう。

19歳のときに、当時お付き合いしていた彼に、養子だと知った経緯を話しました。

 

彼もまた、私同様に養子だったので、「この人なら話してもいい」と思ったからです。

そして、彼と戸籍謄本を元に私が生まれた家を見に行きました。

 

産みの母に会う勇気はなく、家だけ見て帰ってきました。

その8年後に、ひとりで家に行き、産みの母にはじめて会ったんです。

 

産みの母は、私が31歳のときに亡くなりました。

このことがきっかけで、心が少し軽くなったのはたしかです。

 

養子だと知ってから、長年にわたり辛い想いはしましたが、ようやくわだかまりもとけ、過去を水に流すことができました。

 

まとめ

私は、養子だと知ったことで、さまざまな辛い想いをしました。

しかし、そのおかげでどんなに大変な状況でも、自分の子は手放すまいと強く決意することができました。

 

また、今だからこそ、育ての母の気持ちが理解できるようになったんです。

すべてのことに、感謝しています。